こくがそうさく‐きょうかい〔コクグワサウサクケフクワイ〕【国画創作協会】
国画会
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国画会(こくがかい)とは、昭和期における有力な美術団体のひとつ[1]。昭和3年(1928年)、もともとは京都の日本画団体として始まった国画創作協会(大正7年-昭和2年)の第一部(日本画)の解散を受けて、その第二部(洋画・工芸・彫刻)が名称を「国画会」と改めて展覧会を発足したことに始まる[1]。
- ^ a b c d e f g “国画会|現代美術用語辞典ver.2.0”. 2020年11月12日閲覧。
- ^ a b c d e 『国画創作協会の全貌展 : 創立一〇〇周年記念』笠岡市立竹喬美術館, 和歌山県立近代美術館, 新潟県立万代島美術館、2018年、17頁。
- ^ a b c “平成29年度 第5回コレクション展 (計121点)|京都国立近代美術館”. www.momak.go.jp. 2020年11月12日閲覧。
- ^ 『国画創作協会の全貌展 : 創立一〇〇周年記念』笠岡市立竹喬美術館, 和歌山県立近代美術館, 新潟県立万代島美術館、2018年、65頁。
- ^ a b c d “国展とは”. 国展 (2015年11月24日). 2020年11月12日閲覧。
- ^ a b c 『国画創作協会の全貌展 : 創立一〇〇周年記念』笠岡市立竹喬美術館, 和歌山県立近代美術館, 新潟県立万代島美術館、2018年、75頁。
- ^ “国画創作協会回顧展 特別展|京都国立近代美術館”. www.momak.go.jp. 2020年11月12日閲覧。
国画創作協会(大正7年-昭和3年)
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「国画会」の記事における「国画創作協会(大正7年-昭和3年)」の解説
大正7年(1918年)1月20日、京都で活躍する新進気鋭の日本画家5人、小野竹喬・土田麦僊・村上華岳・野長瀬晩花・榊原紫峰が設立。「生ルヽモノハ芸術ナリ。機構ニ由ツテ成ルニアラズ」に始まる宣言書を掲げた同協会は、文部省美術展覧会(文展)の旧態依然とした体質や審査基準の曖昧さに反発して、自らの信念に基づく芸術を自由に創造し発表できる場を求めて生まれた。 創立会員5名と第1回国画創作協会展(国展)後に会員となる入江波光は、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)の第一期生であり、共通の師に国展顧問となる竹内栖鳳と美術史家の中井宗太郎がいた。 宣言書には個性の尊重と自然への愛を掲げ、何よりも創作の自由を第一義とした。また、宣言書に付された協会規約には、毎年秋に東京と京都で展覧会を開くこと、会員以外の出品も認め、会員と監査顧問協定の上で陳列することを記して、国展が京都という一都市の同人的な展覧会ではなく、全国規模の開かれた、厳正な審査を行う公募展であることを明記した。同年11月に開催された第1回展には京都だけでなく、全国から多数の応募があった。妖艶な女性像や北方ルネサンス美術の影響を受けた素描作品、西洋風の細密描写など様々な傾向を持つ作品が集まる同展覧会は、文展では受け入れられない新しい画家達の受け皿となり、発展していく。 第1回展は、大正7年11月1日から11月15日まで、白木屋で、麦僊「湯女」、華岳「聖者の死」、波光「降魔」、竹喬「波切村」など。第2回展は、大正8年11月1日から11月15日まで、白木屋で、麦僊「三人の舞妓」、華岳「日高河」、紫峰「赤松」など。第3回展は、大正9年11月2日から11月15日まで、白木屋で、華岳「裸婦」など。第4回展は大正12年9月1日に発生した関東大震災のため延期され、11月に東京、翌年4月に京都で開催。 大正14年第二部(洋画)を設け、梅原龍三郎、川島理一郎を新会員に迎える。第5回展は大正15年2月24日から3月19日まで、日本美術協会で、麦僊「罌粟」、華岳「松山雲烟」、波光「聖コンスタンツァ寺」、梅原「江の浦」、川島「子供の祭」など。昭和2年、第二部の推薦により、金子九平次を迎えて「彫刻部」を、富本憲吉を迎えて「工芸部」を新設。第7回展は昭和3年(1928年)4月27日から5月14日まで、竹喬「冬日帖」、川島「地下鉄道」など。また、この年第一部に版画室を新設。 このようにして同協会は日本画、版画、洋画、彫刻、工芸の各分野を要する総合的な団体に発展したが、それによって経済的事務的な問題が生じることとなる。さらに、関東大震災を境に社会の流れが、大正時代の自由な気風から統制的な方向へと変換してゆくに従って、この会もかつての熱気を失って終息せざるを得なかった。昭和3年7月、13名の第一部同人の名で解散書を発表、10年の活動に幕を閉じた。なお、第一部(日本画)の有志は解散直後の昭和3年11月に「新樹社」を結成したが、会員間の確執から昭和6年に会員が大量に脱退し、活動停止した。
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国画創作協会
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1916年(大正5年)洋画的手法を果敢に取り入れた《島二作》が第10回文展で特選という高評価を得るも、翌年は同展に落選し、同展の審査に対して疑問を持つようになる。当時同じように文展の審査について不満を持つ画家は多かった。そこで、1918年(大正7年)絵専卒業生である竹喬、麦僊、村上華岳、榊原紫峰、野長瀬晩花は国画創作協会を結成。国展という公募展を行い、旧習にとらわれない自由な芸術の創造を目指した。 1921年(大正10年)には麦僊、晩花とともに、渡欧経験のある洋画家・黒田重太郎の案内で渡欧。帰国後は東洋画における線の表現について再認識することとなり、江戸時代の南画を改めて学ぶ。1923年(大正12年)号を「竹喬」と改める。1928年(昭和3年)第7回国展出品作の《冬日帖》によって、西洋というフィルターを通した線描と淡彩による南画風の表現に到達した。同年、国画創作協会は解散し、その後は官展に復帰する。
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