国界争論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:03 UTC 版)
水道築造やその故事の数10年後、脊振山頂付近で国界の争いがあり、元禄6年(1693年)に幕府の裁定が下りている。なお、この争論(肥筑国境争論)で蛤岳付近の国界についても議論に俎上したが、裁定上は何ら影響が無かった。なお天正11年(1583年)に領地争いがあり現在の国界(筑前・肥前界)として決着したとの記録はあるが、当時は室町時代の守護領国制が崩壊した戦国時代の最中(龍造寺隆信や島津義久の侵攻)であり、福岡藩、佐賀藩の成立はそれより後の1600年(慶長5年)、1607年(慶長12年)である。 大野川取水井堰からの導水路 蛤水道 コンクリート化された溝渠 野越し 野越し 水路の横にはさらえ上げた土砂が積まれている 田手川水系坂本川源流 水源地と成富兵庫茂安公記念碑 石碑 土木遺産選奨の石碑
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