国産製薬事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)
前述のように琉球貿易で入手した中国産品の一部は、抜荷品として北国筋に流出していた。薩摩藩の抜荷に仲介者として関わっていたのが富山の薬売りであった。富山の薬売り商人たちは唐物抜荷の関わりの中で薩摩藩側との関係性を深めていた。薩摩藩は自藩で製薬産業を興し、琉球貿易と藩領内の産業振興をリンクさせようとしたが、その中に富山の薬売り商人を巻き込もうとした。 長崎商法の停止など琉球貿易による利益確保が見通せなくなる中、天保13年(1842年)製薬方が設置され、琉球貿易により中国から入手した薬種を原料として製薬事業を興し、苗木や種子も入手して薬草栽培も開始した。調所没後の嘉永3年(1850年)には製薬館が建てられ薩摩藩は本格的に売薬事業を展開する。同年には日向領を除く藩領内で富山の薬売りによる売薬が禁止され、薬は製薬方が供給するようになった。翌嘉永4年(1851年)には富山の薬売り22名は製薬方手先となり、藩の製薬事業に組み込まれることになった。 しかし安政5年(1858年)には薩摩藩領内で富山の薬売りが売薬を再開しており、薩摩藩の国産製薬事業は頓挫した。
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