国産練習機の導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:44 UTC 版)
「ブルーインパルス」の記事における「国産練習機の導入」の解説
F-86Fの後継機については、日本で製造した「国産機」によってパフォーマンスを行うことが、自国の防衛力や航空産業のレベルを誇示する上で大きな意義があると考えられた。このため、前述したように後継機としてT-2によるアクロバット飛行について研究の指示が出されていた。 T-2は超音速機であることから、飛行速度の高速化に伴いターン(旋回)やループ(宙返り)の半径が大きくなり、会場上空へ戻るのに時間がかかるため、課目の間の時間が長くなる。このため、「T-2では単独機を1機増加させた6機体制での展示飛行が効果的である」という研究報告がまとめられた。これに伴い、1979年(昭和54年)にはブルーインパルス用として6機のT-2が予算として計上された。つまり、編隊飛行による演技の間隙を単独機による演技で埋めるという工夫である。 1980年(昭和55年)10月には次期ブルーインパルスの塗装デザインの一般公募が行なわれ、2,055作品が集まった。1981年(昭和56年)1月には、女子高校生4名による合作デザイン案が最優秀賞として採用された。1982年(昭和57年)1月12日には松島基地の第4航空団第21飛行隊内に戦技研究班が設置され、同年3月10日までに新造された6機のT-2がすべて引き渡された。機種の変更と同時に、パイロットと地上要員の制服についても新しいデザインとなり、さらに地上でのパフォーマンスも変更された。
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