国産機の開発
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1956年(昭和31年)、戦前からこのころまで使用されてきた旅客・貨物輸送機であるダグラスDC-3を原型とする旧海軍零式輸送機が老朽化していたため、日本の通商産業省(当時。現・経済産業省)は5月30日に「中型輸送機の国産化計画構想」を発表した。これは「輸送機国産5カ年計画」となり、航空業界はにわかに活気付いた。しかし、禁止11年の歳月により、他国との航空機設計・製造の技術力格差は拡がっていた。各方面から実現が疑われ、賛同が得られない中、通産省の航空機武器課長である赤澤璋一は「日本の空を日本の翼で」というキャッチコピーを手に説得を続けた。 当時は運輸省でも民間輸送機の国内開発の助成案があり、通産省の国産機開発構想と行政の綱引きの対象となって権限争いが行われていた。閣議了承により、運輸省は耐空・型式証明までの管轄、通産省は製造証明と生産行政の管轄の二重行政で決着した。 国内線用旅客機の本格研究は新明和工業(旧・川西航空機)で始まっていた。1956年(昭和31年)に運輸省が発表した「国内用中型機の安全性の確保に関する研究」の委託を受けて基礎研究を行っていた。この研究で後の設計に参加する新明和の菊原静男、徳田晃一の両名によって行われた。この研究はDC-3の後継機種の仕様項目を研究するもので、レシプロエンジン双発の第一案(36席)、第二案(32席)、ターボプロップエンジン双発の第三案(52席)、第四案(53席)の設計案が提案され、中から最適とされた第三案がその後のYS-11の叩き台となった。他社がアメリカから航空機製造ライセンスを獲得する中、新明和は対潜哨戒機P2V-7の生産ライセンスを獲得できず、航空技術断絶の危機にさらされていた。 通産省はこれを叩き台として、1957年度(昭和32年度)予算に8000万円を要求した。だが、政府与党(自民党)や大蔵省(当時。現・財務省)の反応は鈍かった。通産省の5カ年計画を4年に短縮し、第1次から第3次折衝まで昭和32年度予算として計上されなかった。通産省や航空業界に失望感が広がる中、翌1957年(昭和32年)1月20日、水田三喜男通商産業大臣と池田勇人大蔵大臣の直接交渉によってにようやく予算を獲得し、開発にこぎつけることができた。それでも当初の獲得予算は3500万円であった。 当初、開発期間は5年であったが、運輸省から国内の旅客機の残余寿命が3~4年の機体が多いので代替時期を勘案すれば5年では長過ぎるとの主張から4年に短縮された経緯である。4カ年計画では、1957年度(昭和32年度)から1958年度(昭和33年度)に風洞実験など各種試験、1959年(昭和34年度)から強度試験用0号機を試作、1960年度(昭和35年度)にかけて試作1号機・2号機を製作することとしており、3機製作にかかる総額は29億5000万円が予想された。 詳細は「YS-11」を参照
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