国産機の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 05:16 UTC 版)
「IAR-81 (航空機)」の記事における「国産機の最期」の解説
それまでルーマニア航空隊で運用されてきた機材も、その多くが同じく「追放」された。機材の削減により軍の規模は段階的に縮小された。作戦機は150機に、人員は10000名に削減されることになった。1945年6月より開始された軍の整理は、まずそれまで3つあった戦闘機航空団は、Bf 109を装備する第1戦闘機航空団とIAR-80・81を装備する第2戦闘機航空団に改変された。 1946年6月から再び整理され、第2戦闘機航空団は第1戦闘機航空団に統合された。Bf 109はドイツ製のものから段階的に廃棄されたものの、国産のBf 109Ga-6を中心に若干のドイツ製機も戦闘機としての使用が続けられた。IAR-80・81をはじめ多くの機体は練習機に機種変更された。 その後、ルーマニアではソ連の影響力の行使のもと「革命」が行われ、人民政府が立てられた。国号はルーマニア人民共和国に変更され、王政の中心にいた人物はみな追放された。航空隊でも組織の主だった人物が追放されたほか、現場の人間も多くが反社会主義者として追放、とくにパイロットたちは革命騒ぎにあって反ソ連的であったことから極めて危険な状況に置かれた。 1947年8月に開始された三度目の整理では、それまで運用してきた多くの機体を破棄することになった。戦闘機は75機以下に削減された。その後、残存するBf 109やIAR-80・81は最終的には「ファシストの航空機」の烙印を押されて1950年代初頭に破棄処分された。そのため、ルーマニア人の誇る国産戦闘機IAR-80・81は1 機も後世に残されなかった。現在IAR-80の復元機が製造・展示されているが、IAR-81は現在その姿を見ることはできない。IAR-80・81シリーズの最後の機体は、1952年に退役したとされる。ここに、航空機史前期において東欧最大の勢力を誇ったルーマニア航空隊の歴史の第一幕が終わりを迎えたと言えよう。 「ファシストの航空機」の廃棄後も輸送機や練習機など後方支援任務用の機材ではS.79(JIS-79B、JRS-79B)、Ju 52/3m、He111など戦時中の機体が最大限、つまり機体寿命となる1950年代末まで使用され続けた。Bf 109やIAR-80・81はその華やかさゆえ、とりわけ冷遇されたといえる。すなわち、人民政府はこれら戦時中の有名な功労機を破壊することをプロパガンダとして利用したのである。 一方、ルーマニアではBf 109にかわってソ連製のLa-9戦闘機が配備されたが、こちらは西側から「共産主義者の航空機」の烙印を押され、これを根拠に西側では「ルーマニアはソ連からBf 109にかわりより劣ったLa-9を押し付けられた」と評されている。実際には戦後の新鋭機であるLa-9が戦時中のBf 109に総合的に劣るということはなく、せいぜい一長一短といった程度であり、La-9が劣るというのは「共産主義者の作ったものはなんでも悪い」という西側の宣伝にほかならない。これは、西側でも東側でも同様のプロパガンダ合戦が行われていたことの小さな例といえる。 戦前、戦後と優秀な航空産業を育ててきたルーマニアであったが、戦後はソ連の計画下に置かれるワルシャワ条約機構に組み込まれ、独自の発展は禁ぜられてしまった。それでもニコラエ・チャウシェスク政権の肩入れの下それなりに独自性を持った航空産業を維持したが、IAR-80・81シリーズに続く国産戦闘機は現在に至るまで完成していない。ゆえに、IAR-81Cが現在でも「最高のルーマニア国産戦闘機」となっている。
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