合流構想とその展開
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加藤の乱による加藤派分裂の直後から合流構想自体は持ち上がる。加藤個人に対する反感から離脱した河野グループにとって、堀内派(当時)と組むことに感情的な障害はないと見られたからである。さらに加藤が小里派(現・谷垣派)から離脱した頃から、3派閥による合同構想が語られるようになった。 2006年に入ると、ポスト小泉争いで清和政策研究会(当時森派)出身の安倍晋三の優位が伝えられ、3代続いて清和研からの総理総裁が誕生することが決定的となっていた。国政選挙の度に勢力を拡大し、最大派閥となっていた清和研に対抗する意味合いもあり、大宏池会構想実現が具体的に進行し始めた。既に河野グループの宮澤派離脱や加藤の乱から5年以上が経過して、感情的なしこりも薄らいできており、三派の幹部も宏池会の再結集に基本合意した。当初は大宏池会としての統一候補を出すことも模索されたが断念、谷垣派の谷垣禎一、河野グループの麻生太郎がポスト小泉の総裁選に立候補するため、9月の2006年総裁選が終わった10月頃に、三派が統一する流れとなっていた。合流への最大へのネックのひとつと見られていた河野と加藤の確執についても、元々両者の政治的思想は近く、共にハト派を自認しており、総裁選直前に、タカ派的存在の安倍への警戒感からか、宮澤派宏池会の分裂後、初めて会談を行うなど、雪解けが進んだ。 ところが総裁選では麻生・谷垣が出馬した一方、堀内派改め丹羽・古賀派は「安倍支持」を表明、更に同派のベテランである柳澤伯夫が安倍陣営の選対本部長に就任。安倍が勝利した総裁選後の人事では丹羽・古賀派からは丹羽が総務会長に就任したのに加え、4人を閣僚に送り込み、河野グループでも麻生外相が留任するなど「主流派」となったのと対照的に、谷垣派は完全に要職から外れて「反主流派」となるなど、政権との距離において宏池会系が分断される形になった。 この総裁選後、10月に丹羽・古賀派では、派閥乗っ取りに近い形で古賀が会長に就任して古賀派に、12月には河野グループが麻生派に、それぞれ衣替えがなされ、名実ともに麻生・古賀が派閥を継承することになった。しかしかつて盟友関係であったこの2人の関係の冷え込みも、その後の大宏池会構想の障害となっていく。 なお、2006年、麻生と谷垣が総裁選前後に何度か会談を持った際、麻生が谷垣に「先に(総理・総裁を)やらせてほしい」と主張したという。谷垣は年明けに、この会談があった事実と会談の簡単な内容を講演で公にし、麻生の反感をかった。また森喜朗も谷垣に苦言を呈した。 安倍内閣退陣後の2007年総裁選においては、麻生が早々に立候補を表明する一方で、谷垣派・古賀派がいち早く福田康夫支持を打ち出し、圧勝の流れを作った。しかし麻生が派閥横断的な支持を呼び掛けたのに呼応して、特に古賀派内部から麻生支持議員が多く出るなど、複雑な様相を見せた。総裁選後の党人事では谷垣・古賀がそれぞれ党四役入りして主流派となる一方で、麻生は入閣を拒否。総裁選では麻生包囲網と言われるほどに旧宏池会内部での麻生・反麻生の対立関係が明確となり、とくに麻生・古賀の関係が決定的に悪化したと報じられ、当面は大宏池会どころではなくなってしまった。その後は古賀・谷垣両派が再合流し、いわゆる「中宏池会」が実現したが、翌年の2008年総裁選では谷垣が出馬を断念して自主投票となり、少なからぬ議員がまたも麻生を支持するなど、一致した総裁候補を持てないことの弱みも露呈した。 2009年になり麻生政権の支持率が低迷する中、2月に麻生・古賀両派の幹部会合が持たれた。政権基盤の強化を狙う麻生と、麻生との関係修復や影響力回復を狙う古賀の思惑が一致した形だが、「大宏池会」の話題も出たという。ただし、麻生の留守番役を務める麻生派の中馬弘毅座長は会合の翌日に合流論を否定した。両派の接近に警戒感を持つ他派閥も多く、合流は実現しなかった。その後の総選挙で自民党は大敗、下野し、麻生は退陣。後継総裁に谷垣が就任した。 2012年総裁選での古賀による現職総裁谷垣の再選不支持により、旧谷垣派が宏池会より離脱し中宏池会が瓦解。また、麻生派領袖の麻生も、総選挙敗北後の野党総裁として、自民党分裂を阻止し、政権奪還目前までこぎつけた谷垣ではなく、幹事長の石原伸晃を支持した古賀らを、「自分を要職に就けてくれた人(谷垣)を裏切り、出馬辞退に追い込んだ石原のような人間を支持する人の神経が理解できない」と痛烈に批判(麻生は谷垣の再選を望んでおり、立候補した際には支援するつもりでいた)し、再登板を目指す安倍晋三の支持を表明した。 総裁選終了後、中宏池会より離脱したメンバーで正式に谷垣グループが発足。宏池会でも、古賀が一連の騒動の責任を取る形で会長を降り、岸田文雄が跡を継いだ。時を同じくして、総裁に返り咲いた安倍が民主党政権を解散に追い込み、政権を奪還する。 この総選挙で、石原を支持した古賀、森喜朗が引退。また、新政権では、麻生、谷垣、さらには、町村信孝を除く総裁選立候補者全員が閣僚または党幹部に就任した。 その後、2016年12月に麻生派の幹部と谷垣グループの幹部が岸田と相次いで会談。麻生派は2017年7月、山東派や、谷垣グループの一部と合流して志公会となり、党内第二派閥となった。麻生は度々構想に言及するが、岸田派に警戒感が強いとされ、進展は見られなかった。元来、大宏池会構想は党内最大派閥の清和会に対抗するという思惑があったが、第二次安倍政権においては麻生・岸田のいずれもが政権の中枢で清和会出身の安倍を支える立場にあったことも、構想が具体的な動きにならなかった理由の一つであた。 その後、2020年に安倍が退陣すると、安倍後継を選ぶ総裁選挙において岸田は派閥を超えた支持の広がりを欠いて敗北した。そこで岸田は次期総裁選を睨んで麻生らとの連携を強めたいとの思惑から、絶望的な状況だった大宏池会について積極的な発言をするようになっていった。 2021年総裁選では麻生派が自派の河野太郎と岸田の双方を支持し、谷垣グループも岸田を支持した。岸田が勝利すると麻生派は人事などで影響力を発揮した。そこで、岸田政権においては再び大宏池会の可能性が語られるようになっている。
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