収集の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 07:38 UTC 版)
松方は、内閣総理大臣を務めた松方正義の子である。大学予備門(後の東京大学)に進学するが、校内紛争に関わったかどで放校処分となる[要出典]。その後、1884年(明治17年)にアメリカ合衆国へ留学。ラトガーズ大学を経て、エール大学で法学の博士号を取得し、1890年に帰国した[要出典]。帰国後は首相となった父・松方正義の秘書を務めた後、川崎造船所創業者の川崎正蔵に見込まれ、1896年、株式会社へ改組した同造船所の初代社長に就任した[要出典]。川崎正蔵と松方正義は同郷(薩摩藩)の旧友であり、幸次郎の留学費用も川崎が用立てていた[要出典]。 第一次世界大戦に伴う船舶需要の高まりを受け、松方は積極経営で業績を拡大していった[要出典]。松方が美術品収集を開始したのは、1916年(大正5年)3月から1918年にかけての欧州滞在時のことである[要出典]。松方はアメリカ経由でイギリスの首都ロンドンへ向かった[要出典]。この渡航は、川崎造船所のために貨物船の売り込みや鉄などの資材の買付をすることが主目的であった[要出典]。 美術品収集を始めた経緯については諸説あるが、ロンドンの画廊で、興味本位で絵画を購入したことがきっかけであったという[要出典]。1916年、松方はベルギー出身のイギリスの画家フランク・ブラングィン(Frank William Brangwyn)と知り合った[要出典]。同世代の2人は親しい友人となり、ブラングィンは松方の美術コレクションのアドバイザーも務めた。松方は1918年までのロンドン滞在中に、イギリス絵画を中心とする1000点以上の作品を収集した[要出典]。この他、1918年にはフランスの宝石商アンリ・ヴェヴェールが持っていた浮世絵約8000点を一括購入。同じ年、リュクサンブール美術館館長(後にロダン美術館館長となる)のレオンス・ベネディットの仲介で、ロダンの代表作を一括購入している[要出典]。 上記の1916年から1918年にかけての欧州滞在を第1回目の収集旅行とすると、2回目の収集旅行は1921年(大正10年)4月から1922年2月にかけてで、この時はロンドンのほか、パリ、ベルリンに渡った。この時の渡航は、日本海軍の依頼で、第一次世界大戦で猛威を振るったドイツ帝国海軍の潜水艦(Uボート)の設計図を入手するのが密かな目的だったという。松方の名は既にコレクターとして知られており、パリのベルネーム・ジューヌやディラン・リュエル等の画商巡りには、1921年3月からパリに留学中でフランス語が堪能な成瀬正一が屡々同行した。成瀬の松岡譲宛書簡(1921・9・5付)には、「此頃松方さんが 来て方々絵を買ひに歩いてゐる。ゴオガン十五六枚、セザンヌ四十八枚、クウルベ十枚を筆頭に沢山買つた。矢代君も一緒だ。日本で展覧したら立派なものだらう。世界の大抵の美術館には劣るまい。八百枚以上の名画があるんだから」とある。矢代幸雄が後年『芸術新潮』に書いた「松方幸次郎」には「当時、私と共に松方さんについて歩いたのは、私と東大以来親しくしていた成瀬正一であった。成瀬は十五銀行の頭取の息子で、菊池や芥川の仲間であった。彼の当時新婚の奥さんは、川崎造船所の川崎家より来ており、従って松方さんはこの新婚の夫婦をパリで子供のように可愛がり、また成瀬は絵が好きなので、松方さんの画商めぐりにはよく私と一緒について歩き、また二人で松方さんの顔をきかせて方々の蒐集家を訪問して、いろいろ見せてもらつた。それで自然に成瀬は松方さんに画の選択について言うことになっていたが、もともと非常に金持ちの坊っちゃんで臆面なしであり、殊に、松方さんには何でも言える間柄であったから、成瀬の意見は松方さんに通りがよく、それで私は屡々松方さんに何か言う時、成瀬に応援を頼んだ。...彼は殊に二人の画家を推奨して已まなかった。一人はギュスターブ・モローであり、これは確かに彼の文学趣味から来ていた。...もう一つ成瀬が好きだったのはクールベーであった。...松方さんと一緒に歩くと、頻りにクールベーを求めるので、しまいには画商の方も承知して何時行っても何かよいクールベーを見せてくれるようになった。その中には随分いいクールベーもあったが、どの程度松方さんが買われたか、よく知らない。しかし日本に割合に多くクールベーの佳品から、以下いろいろの程度のクールベー風の作品が入っているのは、成瀬と共に歩く松方さんが自然に多くクールベーを買われ、その結果、敏感なるパリの美術市場は日本人のお客とみれば、クールベーを出して見せたためではなかろうか。お陰で私はよいクールベーの勉強が出来、松方コレクションにもよい作品が入っているようである。」とある。松方は当時健在であった印象派の巨匠モネとも直接に交渉し、作品を購入した。画商などから購入する時も剛胆で、ステッキで「ここからここまで」と指して購入したとの逸話も伝えられる。パリ近郊ジヴェルニーにあったモネ邸を1921年に訪問した際の様子は、矢代の著書『芸術のパトロン』に描写されている。それによると、松方はモネの自邸に飾ってある自作の中から18点を選び、所望した。モネは「自宅に飾ってあるのは自分のお気に入りの作品だが」と言いつつ、「君はそんなに私の作品が好きなのか」と言って快く譲渡してくれたという。 同じく矢代の伝えるところによれば、画商ポール・ローザンベールのところで見かけたゴッホの『ファンゴッホの寝室』とルノワールの『アルジェリア風のパリの女たち』の2作は希代の傑作なので、ぜひ購入するよう、矢代は松方に熱心に勧めたという[要出典]。矢代があまりしつこく勧めるので、松方は買わずに店を出てしまった[要出典]。「あの傑作の価値がわからないのか」と憤っていた矢代が、しばらくしてから松方の所を訪れると、『ファンゴッホの寝室』『アルジェリア風のパリの女たち』の2作とも買ってあったという[要出典]。これは、画商に手の内をみせて、絵の値段を吊り上げられないようにという、松方の計算もあったのではないかと言われている[要出典]。 当時、松方は「私が自由に使える金が三千万円できた」と矢代に語ったということであり、これは現在の通貨価値に換算すれば300億円程度と推定される。 松方は1926年(大正15年)4月から1927年(昭和2年)4月にかけてもヨーロッパに滞在し、コレクションを増やした[要出典]。
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