分散と変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 06:16 UTC 版)
16世紀の間、メノナイトと他の再洗礼派は容赦なく迫害された。17世紀までにスイスの領邦教会に加わり、当局に攻撃を止めるよう説得した者もいた。領邦教会の外にいたメノナイトは、その信者仲間と共に領邦教会の中で宗派に留まるかで意見が分かれ、袂を分かつ者がいた。宗派に残らなかった者は、その創設者ジェイコブ・アマンに因んで、アーミッシュとして知られるようになった。宗派に留まった者はメノナイトの名前を通した。この迫害の時期は、メノナイトの仲間意識に重大な効果があった。1660年に出版された「殉教者の鏡」は再洗礼派とその先行者に対する迫害の多くを記録している。今日、この本は、多くのメノナイトやアーミッシュ、特にスイスや南ドイツのメノナイト分派には聖書の次に重要な書籍となっている。 何年にもわたる意見の不一致がさらに分派を作っていった。その理由は時には神学的なことであり、時には実践上のことであり、時には地理的なことであった。例えば、20世紀の初め頃、日曜学校と福音を説くことを始めたいと考えたアーミッシュ教会の一員がいた。彼らはアーミッシュの残りの者を説得できずに分離し「保守的メノナイト会議」を作った。カナダなどの国のメノナイトは距離の問題やある場合には言語の問題により実践面を考えて独立した宗派とするのが普通になっている。 この集団に関する最初の記録は中央ヨーロッパの小さな地域を支配していたアン伯爵夫人の命令で書かれたものだった。激しい再洗礼派の一派がいることで、その国では政治的にも宗教的にも混乱を来していたので、伯爵夫人はすべての再洗礼派が国から出て行くよう命じた。この命令は例外があり、当時「メニスト」と呼ばれた非暴力の一派だった。 この命令は歴史上で何度も繰り返されるものの先例となり、政治的支配者はメニストやメノナイトが、正直だから、よく働くから、また平和的だからという理由でその国に留まることを許した。しかし、必然的に再洗礼派の存在は強力な国家教会を不安にさせ、君主は兵役免除を取り下げたりした。新しい君主が位に就くと、メノナイトは生きていくために今一度逃げ出さざるを得ないこともあった。多くの場合家族以外の全てを残していくことにもなった。他の国の他の君主は少しの間だけでも快く迎えてくれることもあった。 一つの例がイングランドを支配した女王エリザベス1世である。イギリスの小さな村でオランダ人再洗礼派の一派が、ジョン・スミスに指導される宗派と親しくなった。スミスは後にピルグリムを率いてオランダに渡り続いてアメリカに向かわせた人物である。ピルグリムはオランダのメノナイトに接して、おそらくその教えに影響を受けた。各分派が自分達を律する自由を含めてである。しかし、メノナイトがイエスを神であり救い主であると進んで受け止めるだけの容量がある場合にのみ洗礼を行うべきと信じていたのに対し、今日会衆派教会として知られるピルグリムは幼児洗礼の慣習を続けた。 メノナイトがアメリカのピルグリムに最初に与えた衝撃に加えて、宗教史学者は他の宗教的な教えにもその影響を上げてきた。この中にはバプテストが信仰告白に基づいて成人の洗礼を行うこと、クエーカーが戦争に強く反対することが含まれる。再洗礼派の信仰の流布は今日のアメリカで享受されている信教の自由に繋がっている。 植民地アメリカのメノナイトが大きな範囲で信教の自由を享受する一方で、ヨーロッパの場合は以前と同じような状況に置かれた。その暮らしは支配する君主に依存しており、君主の中には土地が肥えて居らず耕す者がいないような時のみ招き入れる者がいた。この例外はオランダであり、そこでは比較的高い程度の寛容さを享受できた。メノナイトは兵役義務の免除と引き替えに勤勉に働くことと良識によりこの土地を要求することもできたと思われる。しかし、一旦土地が耕作可能な状態に戻ると、約束が替わり、また迫害が始まることになった。土地は常に面倒を見る必要があったので、支配者はメノナイトを追い出しはせず、実際には定着を命ずる法を成立させ、同時にその自由を厳しく制限した。メノナイトは裏通りや小道に面して教会を建てるという制限が課され、正式な教会よりも誰かの家で集会を開く習慣ができた。また鐘の音で礼拝の始まりを知らせることも禁じられた。 さらに兵役免除を続けることと、最も優れた農夫が出て行かないようにしておくことと引き替えに高い税金が課せられた。ある場合には宗派全体が税金を払うために所有物を諦めて出て行くこともあった。ある会員の家族が税金を払えない場合は、仲間が肩代わりした。 このような状況下では「仲間社会」の発展に強い関心がおかれ、今でもメノナイト教会の典型的なスタイルになっている。個別の自由を保持するためにしばしば持ち物を諦めるよう求められてきた結果、メノナイトは簡素な生活の仕方を学んだ。このことは家や教会にも現れており、服装も建物も質素である。単純なドイツ語コラールを使う教会音楽ですら、ア・カペラで歌われる。この音楽様式は多くのメノナイトにその質素な生活スタイルと迫害された人々の歴史を思い出させる。メノナイトの支派によってはこの「質素な」生活様式を今も続けている。
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