出家を巡る家族と教団の攻防
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「土谷正実」の記事における「出家を巡る家族と教団の攻防」の解説
周囲に借金をしたり、学習塾講師・家庭教師の立場を利用して教え子の中高生数人をオウム真理教に入信させたりと、他人に迷惑をかけるようになった。土谷が入信させた高校生の親から抗議を受けた両親は1991年7月13日、話し合いをするためにアパートを訪れた。しかし居留守を使われて会うことはできず、父親名義の土谷の車を廃車処分にして生徒の親と相談。翌々日に「現代のお助け寺」として知られる茨城県の更生施設「仏祥院」に脱会を依頼。7月19日未明、土谷を車から引きずり下ろしてマイクロバスに連れ込み仏祥院の独居房「反省室」に監禁した。元信者の永岡辰哉が1か月にわたり教義の矛盾を説いて説得にあたったが、「お前たちから学ぶことはない」と聞く耳は持たなかった。 関係者が土谷のアパートを訪れると、冷蔵庫には米と味噌だけで、室内はオウムグッズであふれ、布施のために購入した宝くじが数十枚、預金通帳の残高は僅か10円だった。 部屋からは2種類のメモが発見された。1通はA4レポート用紙7枚の「予言メモ」で、麻原が話した予言を土谷が書き取ったものとされ、「1億人総AUM(オウム)。1995年にはオウムが国家をしのぐほど台頭」、「マイトレーヤ(上祐史浩)、尊師の代わりに指揮をとる」、「土谷が中心になって千年王国を築く」、「土谷は92歳で死ぬ」、「1997〜1998年までに日本沈没」などと書かれていた。もう1通には土谷の現実的な苦悩が書き綴られていた。 「 借金に追い回されている。オウムに借りている。色々な人を騙して借金しまくっている。自分を偽装し自分を信頼させて入信させる。上から何人入信させろと命令され、棒で叩いて脅される。無免許運転、交通事故→睡眠時間が少ない 」 仏祥院での監禁開始から2週間が過ぎた1991年8月6日、つくば警察署から土谷の実家に、「筑波大学助教授殺人事件捜査のため土谷に会いたいので居場所を教えて欲しい」という電話が掛かってきた。母親は居場所を伝え、同日午後には仏祥院で土谷は警察官と面会。この時の警察と母親の電話をオウムが盗聴しており、土谷が仏祥院に匿(かくま)われていることが突き止められた。 翌8月7日、林郁夫・井上嘉浩・青山吉伸らが仏祥院に現れ、土谷と会わせるよう要求。青山は「私は弁護士だ。会わせないのは違法だ」などと言い、井上らは警察官が駆けつけるまで居座った。8月8日、町田の実家周辺に「土谷正実くん不法監禁される!」という中傷ビラが撒かれ、教団が土浦警察署に不法監禁の訴えを出した。8月9日になると実家近隣300軒、父親の勤務先、仏祥院周辺に「緊急告発 ○○社勤務の土谷○○(父親名)が息子を監禁している」などと書かれた中傷ビラが撒かれた。「家に火をつけるぞ」という嫌がらせ電話・無言電話がかけられ、留守を守っていた妹が怖がるほどであった。 中村昇・井上嘉浩・青山吉伸・小池泰男らが街宣車を5台動員して仏祥院に連日押しかけ、解放を求めた。24時間体制で張り込み、拡声器を使って麻原の説法やオウムの歌「真理のたたかい」を朝から晩まで流し続けた。説法が聞こえてくると、土谷は体を震わせて泣き出したりうめき声をあげたりした。オウムの激しい奪還工作は続き、(土谷が入信させた)学習塾の教え子を連れてきて「土谷を返せば高校生を家に戻す」と交渉を持ちかると、「自分がオウムに戻らないと彼は家に帰れない」と漏らしていたという。土谷は両親、弟妹、生徒の親らの前で仏祥院主宰の合田から「オウムをやめると言わなければ殺すど」、母親から「いえ、私が殺します」と言われた。幼い頃から母親の後ばかりついて回っていた土谷は母親の「殺す」という言葉に大きな衝撃を受け、「もう帰る場所はない、オウムで生きていくしかない」と思いつめた。 オウムは、教団顧問弁護士・青山の名で人身保護請求を申し立てるという手に出た。人身保護請求の国選弁護人に密かに「脱会する気はなく逃げたい」と伝える一方、家族らには「オウムをやめたふり」をして8月25日に翌日に予定されていた人身保護請求の裁判に備えて、両親、弟妹および合田夫妻とともに、オウムの車の追跡をかわしながら深夜3時半に帝国ホテルに到着。4時頃、隙をついて母親のバッグから現金を抜きとり脱走してタクシーで世田谷道場へ逃げ込み、端本悟らに連れられオウム真理教富士山総本部へ行って1991年9月5日に出家した。出家番号は953。 両親と仏祥院は半年に渡って毎月3回、「8のつく日」に教団施設を訪れ行方を捜し続けたが、再会はできなかった。土谷は合田を恐れており、探しにくると窓から外を伺っていたという。逮捕後、両親は勾留先の築地警察署や拘置所へ面会に訪れたが土谷はこれを拒み続け、公判では「自分を判断力のない赤ん坊か廃人扱いした両親を許さない」と証言するなど骨肉相食む絶縁状態となった。土谷は後に「土谷正実を化学兵器合成にかり立てたのは、村井秀夫と佛蓮宗・仏祥院と被害者の会と細川政権及び雅子様だ。俺が1か月以上佛蓮宗・仏祥院で監禁された経験と全く同じ経験をしてみろ」と記している。2006年以降、洗脳が解けたあとに「オウム真理教家族の会」会長の永岡弘行や、幼なじみの大石圭を通じて家族との和解を試みるも、最後までかなうことはなかった。
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