出家の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 15:18 UTC 版)
「照る中将」「光る少将」がうち揃って出家したことは貴族社会を揺るがした一大事件にほかならず、翌日その報が京に届くと、道長も顕光も、仰天して三井寺へ赴いた。 左大臣(藤原道長)の猶子と右大臣(藤原顕光)の一人子という、共に前途有望な貴公子である二人が、なぜ世を厭うに至ったのか。それについてさまざまな推測がなされ、後世、多くの作品に脚色された。『権記』は、前年道長が大病に罹患した時、成信は看病に当たったが、病状が進行するにつれ、童子・下僕が疎かにして怠けるようになったので、人心の変改を儚んで発心するに至ったと記す。また、ある人の話として、成信と重家は豊楽院の荒廃を見て、無常観を喚起されたという。しかし、二人の出家にはもっと深層的な原因もあるように思える。 当時宮廷貴族の間には出家遁世に憧れる空気があり、浄土思想の浸透と共に若年層の厭世観は日増しに強くなって行った。成信を指して「中心を隔てざる人」という親友藤原行成の『権記』には、成信が行成とその従弟近衛少将・藤原成房と同車して比叡山横川の飯室(成房の父、行成の叔父である元中納言・藤原義懐が出家して隠棲していた)をたびたび訪れ、一夜を語り明かした、という記事が少なからずある。また現実に中関白家の急速な没落と定子皇后の悲運は人々に現世の無常と生死の不定を実感させ、そうした厭世の風潮を助長したに違いない。特に長保2年(1000年)12月、定子の崩御後、中関白家および定子サロンと親しかった者は大きな喪失感を抱いたと思われる。成信・重家の出家も定子の七七忌を間近に控えてのことであり、定子崩御が発心の直接の契機でないにせよ、一つの素因となった事実は否めない。なお、成信出家の数日前、彼が出家することを行成が夢に見て、それを彼に告げると、彼は「正夢也」と笑って答えたといい、その時既に腹を決めていたと見える。 成信が「世を背いた」時に、一条左大臣室(雅信の室、成信の外祖母)が装束を、伊勢大輔が麻の衣を贈ったことが、それぞれ『新勅撰和歌集』『伊勢大輔集』に見える。また、『拾遺和歌集』にはこの時藤原公任が行成に贈った和歌も採録されている。
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