出家と跡目争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 13:51 UTC 版)
持氏の子で新しい鎌倉公方(後に古河公方)となった足利成氏と上杉氏との間で享徳の乱が発生すると、時高は持朝に従って各地で成氏側と戦う一方で、8代将軍・足利義政の異母兄・政知の新公方擁立を図る。しかし、関東の情勢の不安定さをもって政知は鎌倉には入れず、伊豆堀越に入り、堀越公方と名乗った。 だが、相模を支配する扇谷上杉家とその傘下である三浦氏・大森氏が鎌倉入りを妨害しているのではとの猜疑から政知の重臣・渋川義鏡が上杉持朝と時高、大森氏頼・実頼父子に反逆の疑いありと讒言する。寛正3年(1462年)、時高は持朝の代わりに責任を負って出家する事で事態の収拾を図った。この時、千葉実胤が隠遁したのも関係があるといわれている。 これによって高救が家督を継いだが、後に時高に実子である高教が生まれると高教を高救の後継にしようと図り、高救・義同父子と対立する。更に文明18年(1486年)に扇谷上杉家を継いでいた上杉定正(高救の弟)が、内外の信望厚い重臣太田道灌を暗殺して家臣に動揺が広がると、高救が三浦氏の家督を義同に譲って扇谷上杉家に復帰して自らが当主になろうと画策した。これに激怒した時高は定正と共に高救父子を追放して実権を奪還する。結果、高救は安房国に、義同は母方の祖父の大森氏頼のもとに奔った。
※この「出家と跡目争い」の解説は、「三浦時高」の解説の一部です。
「出家と跡目争い」を含む「三浦時高」の記事については、「三浦時高」の概要を参照ください。
- 出家と跡目争いのページへのリンク