出家と帰京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:00 UTC 版)
かねてより夢窓疎石に帰依していた光厳院だったが、近江国より帰京し程無くして出家した後伏見の出家の勧めを堅く断り、光明院の出家を批難して幽閉生活となっても出家しなかった。しかし、京の北朝方が光厳らの帰京を諦め光厳抜きで後光厳践祚の運びとなると、観応3年年8月8日に賀名生で出家し、法名を勝光智と称した(後に光智に改める)。8月、京都では正親町公蔭・楊梅重兼・大炊御門氏忠が後を追って出家する。同年の6月、正親町三条秀子が虚労によって病み、11月に父邸にて薨去、42歳。三上皇と直仁は文和3年/正平9年(1354年)3月22日に河内金剛寺に移され、塔頭観蔵院を行宮とされた。文和4年/正平10年8月8日(1355年)には光明上皇のみ京都に返される。10月20日、光厳は崇光に全ての琵琶の秘曲を伝授し終え、11月6日に孤峰覚明より禅衣を受け禅の道に没入する。寿子内親王も直ちに出家し翌年4月に禅衣を受けた。なお、同年10月に後村上天皇も金剛寺塔頭摩尼院を行宮とし、同時期同所にて光厳とは別流派である播磨局流の学んでいた。 南朝の軟禁下にあること5年、延文2年/正平12年(1357年)2月になって崇光上皇、直仁親王と共に金剛寺より還京し、2月18日に光明法皇のいる深草金剛寿院に入り崇光上皇は広義門院の伏見殿に入った。19日、近衛道嗣や洞院公賢はお祝いを申し入れるべく伏見殿に参上しようとするが光厳と崇光は会おうとせず、参入を禁じられた。しかし、四条隆蔭は祗候を許され勧修寺経顕も時々参入していた。3月に入って秀子の父正親町三条公秀を召し、29日に面会。公秀は公賢宛の書状にこの日のことを「悲喜の涙に溺るる」ばかりであったと記す。ついで嵯峨小倉に隠棲。世俗を断って禅宗に深く帰依し、春屋妙葩らに師事した。 貞治元年/正平17年(1362年)9月、法隆寺に参詣した。これに関連して、法皇が大和・紀伊へ行脚に出て、吉野で後村上との再会を果たしたという話が『太平記』・『大乗院日記目録』に見える。かつての敵味方の交歓を描くこの話は、軍記物語『太平記』を締め括る名場面として知られるが、そのまま史実とみることは出来ない。
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