出奔とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 23:59 UTC 版)
天正6年(1578年)2月3日、員昌は信長の意思に背いて叱責され出奔し、領地の高島郡は津田信澄に与えられた(信長公記 巻11)。信長の叱責の内容は不明であるが、一説には家督を譲るよう、信澄や信長が迫ったが拒んだためともいう。本能寺の変において信澄や信長が亡くなると高島郡に戻って帰農し天正18年(1590年)9月10日に死去した。享年68。 子・行信以下の一族は石田三成、後に藤堂高虎(高虎は天正年間に、員昌に仕えていた)に仕えて家名を存続させた。孫の行尚は、大坂の陣で藤堂軍に属して八尾・若江の戦いで増田盛次を討ち取る功績を上げている。娘は小堀正次に嫁ぎ、茶人・小堀政一を生んでいる。
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