出奔の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 16:40 UTC 版)
数正が出奔したことは家康を大きく動揺させ、軍制の改正を余儀なくされたともされているが、出奔の理由には諸説あって定かではない。 秀吉との外交関連 次第に秀吉の器量に惚れ込んで自ら秀吉に投降したという説。 秀吉得意の恩賞による篭絡に乗せられたとする説。 対秀吉強硬派である本多忠勝らが数正が秀吉と内通していると猜疑し、数正の徳川家中における立場が著しく悪化したためという説。 秀吉との間で(秀吉のところに行けば)家康との戦を回避するという密約があったとされる説 松平信康関連 信康の後見人を務めていたため、天正7年(1579年)の信康切腹事件を契機に家康と不仲になっていたという説。 信康切腹後、徳川家の実権が数正を筆頭とする岡崎衆(信康派)から酒井忠次ら浜松衆(家康派)に移ったため、数正は徳川家中で立場がなくなったという説。 その他 父・康正が家康と敵対して失脚すると、家康の縁戚である叔父・家成が石川氏の嫡流とされ、数正はその功績にも関わらず父の一件ゆえに傍流に甘んじざるを得なかったからとする説。 家康と示し合わせ、徳川家の為に犠牲となった形で投降したふりをしたという説。 秀吉との交渉を行う中で現状を知る数正が、現状を知らずに主戦論を主張する本多忠勝、榊原康政ら家臣団に対し主戦論を放棄させるため投降したという説 家康の影武者、世良田二郎三郎元信が立場を利用して信康を殺し、松平(徳川)家を乗っ取ったためという説。この説によれば、家康が何らかの形で不慮の死を遂げ、松平家存続のために世良田元信が君主に挿げ変わっていた。数正もこのことは承認していたが、それはいずれ跡取りである信康が成長すれば、松平(徳川)氏の家督は信康が継ぐものと信じていたためである。しかし信康は信長の処断要求に乗じた家康(元信)の命令で処刑されてしまった。家康と松平家に対し強い忠義心を持っていた数正は、これに激しい怒りを覚えていたとされる。ただし、この影武者説は専門外の素人によるものであり、アカデミズムの立場からは否定されている。詳細については→徳川家康の影武者説
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