上杉家臣時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/14 01:21 UTC 版)
天正5年(1577年)に七尾城が上杉輝虎(上杉謙信)に落とされると、一旦上杉一門の上条政繁の許へ預けられた後に謙信の養子となった。その後、上条政繁に子がなかったため、改めてその養子となる。畠山氏は足利氏一門の名門で、足利氏の外戚である上杉家との血縁も有し、家格も充分であった。 成人後は越中国・能登国前線に配置され、後に養父に従って信濃国海津城に入城する。天正12年(1584年)、長男・景広を人質として豊臣家へ送られることが決まると、証人として義春も上洛した。その際に代償として軍役と領内の諸役を免除されている。 天正14年(1586年)、政繁が上杉家を出奔し、のちに義春自身も天正16年(1588年)頃に出奔した。これに激怒した景勝は、実妹(姉とも)である義春夫人とその子供たち全員を捕縛し、10年近くもの間座敷牢に幽閉した[要出典]との説もあるというが、『上杉家御年譜』では長男・景広と次男・上杉長員は父と行動を共にし、三男・義真のみ越後国にとどまるも、ほどなく父の許に赴くとある。 出奔の理由については、景勝と信濃統治などをめぐる対立があったとされるほか、景勝の側近として頭角を現していた直江兼続による讒言説、さらに当時上杉氏に叛旗を翻していた新発田重家と養父政繁が親しい仲にあったなどの諸説がある。
※この「上杉家臣時代」の解説は、「畠山義春」の解説の一部です。
「上杉家臣時代」を含む「畠山義春」の記事については、「畠山義春」の概要を参照ください。
- 上杉家臣時代のページへのリンク