出奔・帰還後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 14:27 UTC 版)
翌文禄3年(1594年)、政宗の養育係を務め当時愛姫付きだった片倉喜多が蟄居を申付けられ、同じ年政宗の師である虎哉宗乙から京都にいる政宗の大叔父にあてた手紙によると、11月4日に義姫が岩出山から出奔して山形の最上家に戻ったとある。岩出山の留守をあずかる屋代景頼が上洛したその留守中のことであった。 慶長5年(1600年)、奥羽では慶長出羽合戦が勃発する。この際、政宗は最上義光より援軍を請われ、義姫も政宗に援軍を急かす書状を送っている。片倉景綱は政宗に、最上勢と敵軍が疲弊するのを傍観して待つよう進言したが、母の安否を気遣った彼はその言を退け援軍を派遣したと言われている(ただし伊達勢は戦況を静観し積極的に動くことはなかった)。戦後、義姫は政宗と援軍の留守政景に対して感謝の書状を送った。 慶長19年(1614年)に義光が没した。義姫は兄の死後、最上家中がすっかり様変わりしたと嘆いていたという。その後の内紛によって元和8年(1622年)に最上氏が改易されると、義姫は行き場を失い、政宗を頼り、元和9年(1623年)その居城・仙台城に入り落飾(らくしょく)した。この頃の保春院は目と脚が悪くなっていたようだが、江戸にいる政宗の正室・愛姫に手製の下げ袋を贈り感激させている。この年7月16日、仙台にて死去。戒名は花窓久栄尼大姉、覚範禅寺に於いて火葬される。享年76。なお、政宗はこの時期、嫡子忠宗と共に京に上っており、母の訃報を知ったのは、7月下旬のことであった。政宗不在の中、葬儀は8月5日に仙台北山に於いて執り行われた。
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