出家の理由について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/24 03:14 UTC 版)
顕信の出家の2ヶ月前にあった事件がその一因であったとの説がある。寛弘8年12月15日、藤原伊周の子道雅と道長の次男頼宗(高松三位中将)及びその舎弟が、派遣先の北野の斎場にて他人の悪口を言い合っていたことが発覚している(『小右記』)。『小右記』では頼宗の弟が誰であるかは明らかにはされていないものの、状況的に道雅・頼宗と居合わせられる弟は顕信以外にはいなかったと考えられる。その4日後の19日、三条天皇から道長に対して藤原通任の参議昇進で空席となった蔵人頭に顕信を就ける意志を告げたところ、道長が顕信は「不足職之者」で「衆人之謗」を招くとして辞退を申し出ている。道長の辞退の理由は15日の一件と考えられているが、同時に天皇の前で父親から「不足職之者」と評された顕信は、自己の将来に対する不安を抱えていたことが突然の出家に繋がったというものである。
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