出家以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 15:11 UTC 版)
天正7年1月10日(1579年2月5日)に三河国加茂郡足助庄(現在の愛知県豊田市(旧足助町))にある則定城主、鈴木重次の長男として生まれる。長男ではあるが家を継がず、別に一家を興している。鈴木家は弟重成が継承した。 父の代から徳川家康に従い、初陣は関ヶ原の戦いの際に本多正信隊に参加して徳川秀忠を護衛した時であり、その後の2回の大坂の陣でも武功を挙げて200石の旗本となった。 三河武士であった正三は常に生死を身近に感じ、17歳の時に経典を読んで以降、仏教に傾倒し、職務の間を縫って、諸寺院に参詣した。 1619年の大坂城番勤務の際、同僚であった儒学者の「仏教は聖人の教えに反する考えで信じるべきではない」との意見に激しく反発し、『盲安杖』を書いてこれに反論し、翌年42歳で遁世し出家してしまった。旗本の出家は禁止されていたが、正三は主君の秀忠の温情で罰せられることもなく済んだ。正三の家も秀忠の命により養子の重長を迎え存続が許されている。
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