猟師と鹿のたとえについて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:09 UTC 版)
この経は、沙門・バラモンの四種類のあり方について、彼らを鹿の群れにたとえて説かれたものである。沙門・バラモンというのは、初期の仏教において一般的な修行僧のことを指しており、ゴータマ・ブッダの教えを修するために集ってきたさまざまな宗教の修行者やバラモン教の修行者を念頭に置いた説話となっている。この経でゴータマは、人間を鹿にたとえている。鹿は森林に住んでいて餌に乏しくなると、餌を求めてあちこちと動き回ることとなる。そうした鹿を狙って、猟師は、餌をまいた餌場をつくり、そこにわなを仕掛けている、という設定になっている。猟師とは、マーラであり、餌というのは、祭祀などによって、地位や名誉などによる世間的な利益を得て、煩悩を増大させるものである。それは、五つの欲望の対象であるとされている。猟師の目的とするところは、鹿をとらえて食い物にし、自分の生命を維持することであるといえる。したがって、マーラの目的とするのは、修行者を支配することによって、自分の支配欲等を満たすことであるといえる。そのように、この世にて、自らの修行を全うしようとする者には、マーラの支配のわなが付きまとっているということが説かれている。ゴータマは、出家する以前に初禅の境地に到達していたとされている。この時期は、ゴータマにとっては、菩薩としての修行中であったと考えられていたようだ。人間の中に常に湧き上がってくる思念について、ゴータマは、善なる思いと悪なる思いのあるという観点から、対策を講じたとされている。それによると、初禅の境地に到達するには、止観と正見の鍛錬が必要であったとされている。出家する以前に体得した第一禅の境地と、悟る前に体現した第一禅の境地は同じ境地であると考えられるので、悟る前に体現した第一禅の境地には、マラーのわなについての考察も含まれていたようだ。マラーのわなに関したこととして、双考経では、初禅において止観されたのは、内側から悪い道に行こうとする心の傾向であるといえる。その悪い道は、外側にも存在し、それは、邪悪な見方、邪悪な思い、邪悪な言葉、邪悪な業務、邪悪な生活、邪悪な励み、邪悪な思念、邪悪な精神統一(定)であるとされている。悟る直前に為された第一禅には述べられていないが、いわばその前提として、第一禅の境地の体得には、マラーのわなについての考察が不可欠であったと言うことができる。 ゴータマは、修行を全うしようとする者には、マーラやマーラの仲間たちが行かないところに住み、マーラの眼を根絶し、悪魔が見ないところに心の境地をもって行く必要があるとしている。
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