猟師としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 23:38 UTC 版)
徴兵年齢である20歳に達して猟銃所持が許可された後、父から貯金をはたいて購入した最新式の村田銃を与えられ、猟師となった。ヒグマ狩りを目指して山に入ったものの、実際に目撃したヒグマに恐れをなし、撃つことができなかった。こうしてヒグマを前にして銃を放つことのできない日々が、実に10年以上続いた。 1941年(昭和16年)、32歳にして初めてヒグマの親子を仕留め、父を始め地元住民たちの喝采を受けた。これがわずかな自信となり、翌1942年(昭和17年)には4頭、翌1943年(昭和18年)には3頭のヒグマを仕留めた。ヒグマの胆嚢と毛皮は高価な売り物になったが、仇討ちだけが目的の大川はそれらに興味を示さず、住民たちに無償で配布した。 第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)、召集により戦地に赴いた。戦地でもヒグマ狩りで鍛えた抜群の射撃能力で活躍。100メートル先の動く標的にも銃弾を連続して命中させ、人々を驚かせた。 1946年(昭和21年)に復員。父はすでに死去しており、父に報いるためにも打倒ヒグマ70頭の誓いを新たにし、翌1947年(昭和22年)から狩猟を再開した。ほかの猟師と協力してヒグマを仕留めたこともあるが、ほとんどの場合は1人で狩猟を行なった。戦場で培った度胸もあり、毎年1頭から4頭、多いときでは年に7頭を仕留め、1969年(昭和44年)には50頭を達成した。この頃に周囲の勧めで、5連発のライフル銃を購入。新たな銃の性能も手伝い、間もなく念願の70頭を達成。地元では祝賀会が開催された。 しかし依然として北海道内では、ヒグマによる被害が続いていた。周囲の要請もあり、大川は新たに100頭の目標を立てた。すでに60歳を過ぎており、山に入ることでの疲労が増し、銃の重量にも負担を感じ始める年齢であったが、1977年(昭和52年)、ついに100頭を達成した。このうち大川が単独で仕留めたものは76頭を占めている。
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