人権擁護、外交官
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「ステファン・エセル」の記事における「人権擁護、外交官」の解説
戦後、エセルは外交官として出発し、1945年11月に中国での大使に任命されたが、その後、考えが変わった。1946年2月にニューヨークで経済社会政策担当国際連合幹部アンリ・ロジエ(フランス語版)の補佐となり、世界人権宣言の編集オブザーバーになった。 1953年頃、彼はブラックアフリカに着目し、コンゴの都市ブラザヴィルでWHO地域事務局を設置準備をするよう求め、アフリカに関わる。 また、彼は外交官アンリ・オプノ(英語版)のベトナム統一政策に同行し、以後、1955年から1957年までベトナムのサイゴンに2年間赴任した。1962年、アフリカ・マダガスカル労働者育成協会(Association de formation des travailleurs africains et malgaches, AFTAM)を設立し、最初の会長になった。 1963年から1969年までアルジェリアのアルジェに赴任。1969年、ジョルジュ・ポンピドゥーの申し出によって国連や国際機関を担当。1970年秋、国連開発計画事務局長ポール・グレイ・ホフマンによってニューヨークに招かれホフマンの補佐になり、1972年までニューヨークに滞在した。1977年、ヴァレリー・ジスカール・デスタンはエセルをジュネーブにある国連の大使に任命、1981年まで務めた。1982年8月にエセルはフランスの視聴覚通信の監督機関視聴覚通信高等庁(フランス語版)に任命され、3年間務めた。エセルは「終身大使」に任命され、外交旅券を保持し続けた。彼は世界の子供たちのための非暴力と平和文化振興国際十年(英語版)のフランスにおける主催委員会のメンバー、また、コレジウム・アンテルナシオナル(英語版)の設立発起人の1人、そして、全国人権諮問委員会(英語版)や国際協力高等評議会(フランス語版)のメンバーでもある。1993年、エセルはウィーンで開催された国連世界人権会議のフランス代表に選ばれた。 2003年、かつてのレジスタンス・メンバーらとともに「ソーシャルヨーロッパ条約について」の請願書に署名、2006年8月、彼はレバノンでイスラエルの空爆に対するアピールに署名した。アピールは「公正平和のための欧州ユダヤ人(英語版)」のフランス人会員組織によって行われ、『リベラシオン』や他のフランスの新聞に掲載された。 2004年、欧州評議会より南北賞(英語版)を受賞した。同年、彼は1944年3月15日の全国抵抗評議会60周年記念に出席、そこで彼はカルチュラル・デモクラシー、ソーシャル、経済上の理想、レジスタンスの記憶を伝え、今生きる若い世代を促した。エセルは1999年にメリット勲章グランドクロスを、2006年7月14日にレジオンドヌール勲章グラントフィシエをそれぞれ授与されている。 エセルはホームレスに住宅を提供するため利用可能な資金をフランス政府に要求、2008年2月21日にレピュブリック広場で世界人権宣言第25条を不遵守するフランス政府を非難した。世界人権宣言60周年の2008年12月10日、エセルは人権文化振興のためユネスコ/ビルバオ賞を受けた。さらにスペイン国際連合協会の2008年度平和賞も受賞した。 2009年1月5日、エセルはガザ地区におけるイスラエル軍の攻撃を次のように批判した「事実上、適用する単語—適用すべき—は'戦争犯罪'および'人道に対する罪'である。しかし、この言葉は慎重に使用する必要があって、一つは国際連合人権高等弁務官事務所所在地であるジュネーブでの場合は特に、その問題について重要な意見を持っていることがある。私として、ガザを訪れたときのこと、何千もの子どもたちがいる難民キャンプを見た、それら爆撃行為は人類に対する紛れもない犯罪である。」 2011年、エセルは米外交専門誌『フォーリン・ポリシー』のトップグローバル思想家のリストに「心を失ったグローバル社会へ、フランス抵抗精神をもたらした。」ことにより選出された。
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