中東での展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 00:15 UTC 版)
マニは自分の死後に備えて、教会組織を作り上げていた。これは仏教教団の影響とみる説とエルカサル教団を参考にしているという説がある。また、整然としたマニ教教会組織はゾロアスター教神官団の組織編成に影響を与えた可能性が指摘されている。 マニ教教会のヒエラルキーは以下の通り。マニの出身地バビロニアの伝統に従って聖職者の人数は12に倍数が用いられている。 マニ教のヒエラルキーパフラヴィー語(単数形)/中国語人数備考聖職者 デーン・サーラール / 法王 1人 在クテシフォン フェレスタグ / 承法教道者 12人 イスパダグ / 伝法者 72人 マヒスタグ / 法堂主 360人 ウィズィーダグ / 一切善人 無制限 一般信徒 ニヨーシャグ / 一切浄聴者 無制限 マニの死後、デーン・サーラールの座を巡り、教祖の直弟子ガブリアールとそれ以前に記録のないスィースィン(マニの親戚?)の間で争われた。結局、スィースィンがサーラールに就任し教団本部をサーサーン朝の首都クテシフォンからバビロンに移した。スィースィンのもとでアラビア半島にも伝教が行われ、アラブ人都市国家ヒーラの王アムル・イブン・アディーを改宗させるなど、メソポタミア南部に教線を伸ばした。286/293年、カルティールに呼び出されたスィースィンと「3人の長老(教祖の直弟子?)」が処刑されてしまう。このことは教祖の死に次いでマニ教団に衝撃を与えることとなり、マニ教の5大祭りのうち第2と第4がこれに因んでいた。また、一部のマニ教徒がローマ帝国やアラブ人国家に亡命した。 第三代デーン・サーラールにはインド伝道を担当していたマニの直弟子ハッティーが就任した。ちょうどサーサーン朝7代目皇帝ナルセ1世の治世と重なり、カルティールの政治力が失われた時期だったため、マニ教にとって比較的安定した時期となった。その後、マニ教の内部資料は途絶えてしまう。 4世紀、9代目皇帝シャープール2世とゾロアスター神官団の長アードゥルバードによっての治世でマニ教は再び迫害された。第10代皇帝アルダシール2世に時代には、ゾロアスター教で悪の存在と考えられた蟻を踏み潰すよう住民たちに迫った。マニ教徒にとってはすべての生き物は光を内側に秘めた存在なので殺してはならない。これによってマニ教徒をあぶりだし、異端を根絶しようとした。 ただしマニ教は聖典の整備という点でゾロアスター教に優位に立っていた。ゾロアスター教には口伝伝承しかなく(『アヴェスター』の書籍化は6世紀まで待たなければならなかった)、またキリスト教・ユダヤ教でも特定の書物を聖典として明確に区分したのは3~4世紀であり、マニ教はこれらの宗教に先立っていた。そのため知的水準の高い人ほどゾロアスター教よりマニ教に魅力を感じ、多くのゾロアスター教徒がマニ教に改宗した。そこでゾロアスター教はキリスト教徒の用いていたパフラヴィー文字を改良してアヴェスター文字を作り『アヴェスター』を著した。しかしこれは大昔の口語アヴェスター語を文字化したものなので、当時の人々にも理解できるようパフレヴィー語の注釈『ザンド』が執筆された。こうしてゾロアスター教の聖典が整備されると、マニ教の聖典はゾロアスター神官団によって出来損ないの『ザンド』とみなされ、攻撃されるようになった。528年のマズダク教の乱が鎮圧されると、マニ教への圧力が強まり、多くの教徒が中央アジアに逃れた。 7世紀に登場したイスラム教には、マニ教との類似点が見られる。マニは、アラム語のマニ教教典『大福音書』で、 キリストによってパラクレートス(聖霊・慰安者・弁護者)と呼ばれたのは、他でもない彼(マニ)であり、彼こそは「預言者たちの印璽」である。 と述べているが、イスラム教の教祖ムハンマドも「預言者の印璽」を名乗った。また、マニ教の一般信者(聴問者)の5つの義務は「戒律」「祈祷」「布施」「断食」「懺悔」であり、ムスリムの義務「五行」との類似が指摘される。いずれにしろアラビア半島でイスラム教団が結成され、7世紀半ばにはサーサーン朝を滅ぼした(イスラーム教徒のペルシア征服)。 イスラム教徒の支配は場当たり的で、当初のマニ教は迫害されなかったため、多くのマニ教徒が中央アジアから帰還した。クテシフォン本部の比重が再び高まったため、カリフ、ワリード1世の時代にデーン・サーラールのミフルによって、自立していた東方のマニ教会が再び統合された。一方で権力基盤を失ったゾロアスター教は求心力が低下し、マニ教に改宗する者が相次いだ。またミフルはムスリムに配慮して教義を変更したため、信者たちからの反発を受けた。次々代のミクラースの時代になると、教会は現実を重視するミフル派と教祖以来の教えを守るミクラース派に分裂してしまう。この対立はアフリカから来たアブー・ヒラール・ダイフーリーなる人物によって調停された 750年に成立したアッバース朝はマニ教に対して大弾圧を行った。マニの絵画に唾を吐かせ、鳥を食わせ、マニ教徒だとわかるとその場で斬首したという。10世紀前半には迫害に耐えられなくなったマニ教教会は中央アジアのサマルカンドに本部を移し、クテシフォンに300人いたマニ教徒は5人に激減した。
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