中御茶屋
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後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年(寛文8年)造営された朱宮(あけのみや)御所が前身である。この地にはそれ以前、上皇の第1皇女である梅宮が出家して円照寺という尼寺を構えていたが、上皇の離宮建設の意思を聞いて、奈良八島の地へ移っていた。朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められた。1885年(明治18年)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となった。なお、林丘寺は門跡尼寺として今も存続している。楽只軒は前述の朱宮御所の一部で、1668年(寛文8年)頃の造営である。書院造の客殿は、1677年(延宝5年)造営された東福門院(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築したものである。客殿一ノ間の霞棚は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られる。他に表門、中門、瓦葺の総門(もと林丘寺の総門であった)がある。 楽只軒 - 瓦葺、杮庇の建物。軒名は『詩経』の「楽只君子万寿無期」によるもので後水尾院の命名である。ほぼ正方形平面で、南面と東面に板縁を設ける。主たる部屋は東側の「一の間」とその西、建物中心部に位置する二の間である。一の間は6畳で北側に床(とこ)を設け、床壁貼付と、その西の壁貼付の絵は狩野探信の「吉野山桜図」である。二の間は8畳で、西面南寄りの壁貼付絵は作者未詳の「竜田川紅葉図」である。一の間・二の間境の長押上の「楽只軒」の額は後水尾院の筆になる。一の間の南には3畳の入側、二の間の南には4畳の入側がある。このほか、建物の西側に5畳間と2畳間、北側に6畳間、5畳間、納戸(2畳)がある。 客殿 - 楽只軒の南東に接して建つ。東福門院の女院御所の対面所を移築したものである。楽只軒より客殿の方が若干高い地盤上に建っており、楽只軒南東の板縁と客殿入側の間は矩折に位置する2つの階段で結ばれている。階段は楽只軒側が4段、客殿側が3段で、段差が一定の高さでない、特異な階段である。建物は入母屋造、杮葺とし、南面と西面に1間幅の入側(畳縁)があり、その周囲に板縁をめぐらす。西側の南が「一の間」、その東が「二の間」、その北が「三の間」で、一の間の北には仏間(御内仏の間)がある。一の間は12畳で、北側西寄りに床(とこ)、その東に幅1間半の棚を設ける。棚は5枚の欅板を高さを違えて設置し、霞のたなびく様に似ることから「霞棚」と称され、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに天下三名棚の一とされる。棚の下方の地袋には友禅染の張り場の風景を描く。その上には細長い三角棚がある。地袋小襖の引手は羽子板形、三角棚の小襖の引手はぶりぶり(玩具の一種)形である。床壁の腰貼りは群青と金箔の菱形を交互に並べた幾何学文で、襖の腰貼りも同様である。床、棚、襖を通して金泥で雲を描き、その上に和歌・漢詩と水墨画の色紙を貼り交ぜている。和歌は親王公家、漢詩は五山僧の筆になるものである。室内の長押には七宝の釘隠14個がある。二の間は10畳で、狩野永敬の四季絵がある。襖の引手は尾長鳥丸紋のデザインとし、長押には七宝の竹葉形釘隠8個がある。南側の畳縁の杉戸には一の間側に鯉と鮒、二の間側に大鯉を描く。これらの魚の絵には画面全体を覆うように漁網の網目が描き込まれ、網目がところどころほつれている様子も描写されている。伝承では、この魚たちが夜な夜な絵から抜け出して庭の池で泳ぐため、漁網を描き加えたという。他に10畳の「三の間」と6畳の「仏間」があるが、後者は女院御所を当地へ移築した後に付け加えたものである。仏壇上方の欄間は波の文様を下向きに表したもので、「逆波の欄間」という。仏間北側には鉤の手に板縁(榑縁)を設けるが、その手摺の意匠は斜めの直線数本を組み合わせた独特のもので、「網干の手摺」と称される。西面入側の北端、楽只軒に通じる階段との境の杉戸には祇園祭放下鉾と岩戸山を描き、これらの裏面には2枚続きで祇園祭の船鉾を描く。
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