下御茶屋とは? わかりやすく解説

下御茶屋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 16:24 UTC 版)

修学院離宮」の記事における「下御茶屋」の解説

池泉観賞庭園のなかに、後水尾院御座所となった寿月観が建つ。門などの付属建物を除くと、下御茶屋に残る建物は寿月観のみである(寿月観も当初建物ではない)。かつてはこのほかに茶屋の「蔵六庵」と2階建て建築の「彎曲閣」があったが失われた丸太門柱に竹を並べた簡素な総門入り、左(北)方向に進むと右手石段上に御幸門がある。御幸門入り右折する中門があり、池を掘った土を盛り上げた高みに寿月観がある。庭園裏手には東裏門があり、これを出ると、道は右の中御茶屋方面と左の上御茶屋方面分かれる。 寿月観 - 後水尾院行幸時の御座所となった建物当初建物岩倉殿(顕子内親王)の山荘から移築したものであったが、享保年間18世紀前半)に失われ文政7年1824年)に再建された。文政再建は、徳川家斉光格上皇のために離宮改修行った際のものである東側に「一の間」、その西に「二の間」、その南に「三の間」が鉤の手連なり三の間の西には5畳の茶室がある。二の間の北には4畳半、その北には10畳半の「玄関の間」が突出し建物北西端式台玄関御輿寄)がある。屋根杮葺で、一の間側が寄棟造三の間側の南妻は入母屋造とする。一の間の東・南面から二の間・三の間の東面にかけて板縁設ける。一の間は15畳。うち北西隅の3畳分を一段高くした「上段」とする。上段西側に床(とこ)を設け、これと矩折の北側に脇床(琵琶床)、設ける。床柱面皮柱長押杉丸太である。の上天袋小襖には、下の地袋小襖には岩にを描く。これらは原在中の筆である。西側の二の間境には岸駒筆の「虎渓三笑」の襖絵がある。修学院離宮のうち後水尾院造営部分上・下御茶屋)にある唯一の襖絵だが、後水尾院没後の作である。二の間は12畳で、西側寄り杉戸夕顔の絵がある。その南の三の間6畳で、従者控えの間である。茶室は5畳で北側に床を設け、裏に物入と水屋がある。一の間南側軒下の「寿月観」の額は後水尾院筆。三の間の南妻には失われた建物である「蔵六庵」の額が掛かる。寿月観前庭飛び石や、庭に立つ袖石灯篭も有名である。

※この「下御茶屋」の解説は、「修学院離宮」の解説の一部です。
「下御茶屋」を含む「修学院離宮」の記事については、「修学院離宮」の概要を参照ください。

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