不振のシーズン(1991年)
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「不振のシーズン(1991年)」の解説
1991年シーズンからはグループCの新規定が施行され、新型車のメルセデス・ベンツ・C291を投入した。しかし、この新型車は完成度が低く、この年は前年までとは一転して陰鬱なシーズンとなった。開幕戦(鈴鹿サーキット)の予選でポールポジションを獲得したジャガー・XJR-14から3.8秒も離されるような状態で、速さに欠けるだけでなく、序盤の数戦は決勝も信頼性不足で完走すらおぼつかないレースが続いた。 この年は全体を通して失意しかないものとなったが、ジュニアチームの伸長は著しく、最終戦(オートポリス)ではヴェンドリンガーとシューマッハの若手同士で組ませた2号車が望外の勝利を遂げた。 C291の開発 詳細は「メルセデス・ベンツ・C291」を参照 C291では、レオ・レスによる車体設計は成功作であるC11から根本的な変更はされず、この車両では主にエンジンとその周辺が変更された。車体の大きな変更としてはラジエーターの搭載位置が変更され、C8以前と同じサイドラジエーターになった。C9とC11で用いたフロントラジエーターは重量配分の改善には効果があったが、冷却水の入った配管を車両の前部まで伸ばす必要があり、重量が増えてしまう不利があったためこの変更が行われた。フロントノーズ部は、ラジエーターをなくした代わりにウィングが設置されてダウンフォースを生み出すとともに、コクピット脇前部に設けられたラジエーター吸気口への整流の役目を担っている。 ターボエンジン搭載車のC11ではエンジンへの吸気はボディ表面のNACAダクトのみで行われていたが、自然吸気エンジンに変更されたC291では、NACAダクトでは充分なラム圧を得られないことが最初の車が完成してから判明したため、左右のコクピットドア後方に大きなダクトが追加されている。 異形のM291エンジン 1991年から始まる新規定では従来存在した燃費についての規制がなくなり、F1と同じ排気量3,500ccの自然吸気エンジンとすることが定められたため、それまで排気量5,000ccのツインターボエンジンを使用していたメルセデス・ベンツ車両はエンジンについては大きな変更を必要とした。 メルセデス・ベンツのグループC用エンジンはそれまで市販車用のエンジンをベースとしたものだったが、新規定への対応を機に、レース専用エンジンとしてバンク角180度のV型12気筒エンジンのM291エンジンが新たに開発された。メルセデス・ベンツが(市販車用からの転用ではない)レース専用に設計したエンジンを投入するのは1954年のM194エンジン以来のことだった。バンク角を180度としたのは、全高を抑えて重心を低くすることと、車体後部底面に幅の広いディフューザーを置くためである。バンク角の狭いV型エンジンとした場合はエンジンの全高が高くなり、車体底面のディフューザーは左右に分割されてしまうことになるが、バンク角が180度で全高の低いエンジンであれば車体の底面をより平坦に設計できるため、幅の広いディフューザーを設置することができる、という目論見だった。 しかし、このコンセプトは通常はエンジン下方向に伸ばす排気管や、エンジン後部に接続するギアボックスの設計に困難を強いることになる。 このエンジンのもうひとつの特徴は、エンジンヘッドとシリンダーを一体化させたモノブロック構造となっている点である。この構造はガスケットからの漏れを防ぐために導入された。それは12気筒を3気筒ずつ分割し、4基のモノブロックで構成されていた。鋳造で作られたこの部品は多くのトラブルを引き起こすこととなり、対策として大量に作ったモノブロックの中から良品のみを選別してレースに使用することになり、この年だけで200基のモノブロック(エンジン50基分)を作ることになった。 デビュー当初、出力の公称値は600馬力で、これはライバルであるプジョー・905 Evo 1 bis(670馬力)やジャガー・XJR-14(650馬力)に後れを取るものだったが、シーズン終盤には出力の点ではプジョーに追い付いていたとされる。トランスミッションは、ザウバーとメルセデス・ベンツのグループCカーとしては初めて、シーケンシャルシフトが採用された。 C11の再登場 元々の計画では、スポーツカー世界選手権は、1991年から排気量3,500ccの自然吸気エンジンを搭載したグループC「新規定」の車両のみで争われるようになるはずだった。しかし、それだけでは参加台数を確保できないと判断したFISAは、前年までの旧規定の車両を「カテゴリーC2」車両として参加させることを認めた。 「C2」の車両には、新規定車である「C1」の車両以上に活躍してしまわないよう、最低重量や燃料の使用量などでハンデが課されていたため、ザウバー・メルセデスは当初、選手権の「短距離」レースでC11を使用する予定はなかった。しかし、C291の開発が思ったように進まなかったために、序盤戦ではシュレッサーとマスが組んだベテラン組(カーナンバー1)は万全を期して旧型のC11を使用し、ヴェンドリンガーとシューマッハの「Lチーム」(カーナンバー2)は新型のC291を使用するという布陣になった。 C291は選手権の500㎞弱で争われるレース用に開発されているため、ル・マン24時間レースの距離には対応しておらず、ザウバー・メルセデスはル・マンの決勝レースは3台のC11で戦った。これは当初から予定されていたもので、レオ・レスはル・マンのために1991年もC11の開発をC291と並行して行った。 戦闘力は健在でル・マンの予選では最速タイムを記録したものの、カテゴリーC1規定の車両を優先する規則のため、決勝は11番手からスタートした。終盤までレースをリードしたものの、最後はエンジントラブルによりリタイアしている。 撤退 不振に終わった1991年の雪辱を果たすべく、ザウバーは1992年シーズン用にC292の開発を進めたが、1991年11月28日にメルセデス・ベンツは翌年の世界選手権に参戦しないことを発表し、スポーツカーレースから撤退した。 1991年は開発の年という位置付けであり、同年の不振は撤退の判断にあたってそれほど重要なことではなかった。最終戦が開催された10月末の段階でFISAは翌年のスポーツカー世界選手権の開催カレンダーを発表できておらず、選手権の先行きが不透明だったこと、ダイムラー・ベンツのグループ企業であるAEGの経営合理化のため、大規模な人員整理が必要になったこと、このふたつが撤退の理由とされる。この年、ザウバーとメルセデス・ベンツではF1参戦に向けた計画が密かに進められていたが、後者の理由により、メルセデス・ベンツがF1参戦しないことも明言された。 この後、ザウバーはザウバー単独によるF1参戦に向けて動き出すことになり、メルセデス・ベンツはそれを側面から支援し、やがて自らもF1復帰へと向かうことになる(詳細は「#F1へのエンジン供給」を参照)。 C292に導入するために開発されたアクティブサスペンションなどの装備は、DTM車両に転用されることになる(詳細は「#クラス1」を参照)。
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