不振、引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 08:18 UTC 版)
夏は休養に充て、秋はクラシック最終戦の菊花賞を目標に、10月4日のセントライト記念からの始動を予定していた。しかし感冒で出走を取り消し、20日後に京都新聞杯で改めて復帰した。ムーティエと5度目の対戦となったが、同馬は夏の間に喘鳴症を発症して競走能力が著しく減退した状態にあった。レースでタニノムーティエは6着に敗れ、アローはタマホープを捉えきれずクビ差の2着と敗れた。迎えた菊花賞では1番人気に支持されたが、周回2周目の第3コーナーで一旦先頭に立った場面が唯一の見せ場という内容で、ダテテンリュウの9着と大敗を喫した。一方、クラシック三冠を狙い出走していたムーティエは11着に終わり、これを最後に引退した。 年末のグランプリ競走有馬記念では、スピードシンボリ、アカネテンリュウ、ダテテンリュウの競り合いから3馬身離された4着に終わった。その後脚部不安を生じて休養に入り、翌1971年9月にスプリンターズステークスで復帰した。アローのスピードが活かせる距離として1番人気に支持されたが、再度の4着と敗れた。この結果に陣営は大きなショックを受け「これ以上惨めな姿は見せたくない」との思いから、これを最後に引退、種牡馬入りとなった。
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不振、引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 06:36 UTC 版)
オークスの競走終了後、厩舎に戻る時点でベガは歩様に乱れを生じた。そのまま千葉県富里町の社台ファーム千葉へ放牧に出されたが、ここで右肩に筋肉痛の症状が出たことで、ヴェルメイユ賞出走の計画は撤回された。その後社台ファーム早来へ移動したが、牧場の装蹄師が蹄に蹄鉄を打つ際に、人間の深爪にあたる「釘傷(ちょうしょう)」を生じさせてしまい、牝馬三冠最終戦・エリザベス女王杯への出走が危ぶまれる事態となった。8月末には栗東に戻ったが、本格的な調教はできず、出走を希望していたトライアル競走のローズステークスは回避してエリザベス女王杯へ直行することが決まった。一時的に坂路ではなく平地で調教を行ってみるなど試行錯誤が続いたのち、10月半ば頃から動きが良くなり始め、エリザベス女王杯に出走可能な状態となった。 競走当日(11月14日)は、夏の間に勝利を積み重ね、ローズステークスを制した上がり馬スターバレリーナが1番人気に支持され、ベガは2番人気となった。レースでベガは好スタートを切ったものの、200メートルほどの地点で他馬と接触して体勢を崩す。武はベガを中団に控えさせ、道中は10番手を進んだ。最後の直線では伸びを見せたものの、先を行くホクトベガとノースフライトに突き放されて3着に終わり、メジロラモーヌ以来史上2頭目の牝馬三冠は成らなかった。このとき民放テレビ中継で実況を務めた馬場鉄志は「ベガはベガでもホクトベガ」という文句を残した。ベガはスタート後の接触が原因で右後脚を負傷しており、競馬場の診療所で球節付近を4針縫合した。松田はインタビューに対し「あのアクシデントを敗因にしたくはない。豊の乗り方も完璧やったし、久々が応えたんやな。3着か。惨敗してないんだもん、よく走ったよ」とベガを労った。 エリザベス女王杯の後からベガは姿勢が変化し、デビュー前のような疲れやすい体質に逆戻りしてしまった。松田はこれについて、脚の内向が影響しない身体のバランスが辛うじて保たれていたものが、崩れてしまったことが原因であると考えた。 年末にはグランプリ競走の有馬記念に出走したが、最後の直線で全く伸びず、9着と初めての大敗を喫する。翌1994年には天皇賞(春)を目標に調教が行われたが、少しの運動で筋肉痛などを起こし、運動と治療を交互に繰り返す状態が続いた。天皇賞への前哨戦として臨んだ産経大阪杯では1番人気に支持されるも、好位につけながら直線で伸びず9着と敗れ、天皇賞を回避することになった。6月12日に行われる春のグランプリ競走・宝塚記念に目標が改められると、同競走の出走馬を選定するファン投票で第2位に選出される。競走前の最終調教では松田が自ら騎乗して感触を確かめた。 競走当日は春の天皇賞を制したビワハヤヒデが単勝オッズ1.2倍と断然の人気を集め、ベガは離れた5番人気であった。このレースの出走メンバーでGI勝ち馬は本馬とビワハヤヒデのみで、ビワハヤヒデの調教師の浜田光正は「どれが相手だか分からないようなメンバー」と後に回顧している。スタート前、ベガははじめてゲート入りを拒む素振りを見せる。ゲートに収まってからは好スタートを見せ2番手でレースを進めたが、直線で伸びず14頭立ての13着と大敗。さらに競走後、左前第一指骨の骨折が判明した。その後、放牧が発表されたが、夏の札幌開催の開始に合わせて北海道に輸送され、そのままノーザンファーム(旧社台ファーム早来)に戻り引退、繁殖入りとなった。
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不振 - 引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:26 UTC 版)
1996年は中央ダートの平安ステークスに出走、地方競馬ではダートコースが主流であるため、1番人気に推されたが8着に敗退。以後は地元笠松でも振るわず、特別戦を1勝したのみに終わり、1997年に競走生活から退いた。同年その功績を称え、笠松に重賞競走「ライデンリーダー記念」が創設された。
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