秋の不振 - 引退まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 01:37 UTC 版)
「コダマ (競走馬)」の記事における「秋の不振 - 引退まで」の解説
日本ダービーの後は休養に入り、秋はセントライト以来2頭目のクラシック三冠が懸かる菊花賞を目標としたが、脚部の不安のため調教が順調に進まず、オープン競走に出走するもフランケルの2着と敗れ、デビュー以来の連勝を7で止めた。続く阪神大賞典もヤマニンモアー、シーザーに後れての3着と敗れたが、三冠に向けてコダマを本命視するマスコミの報道は収まらず、武田は彼らに向けて「コダマはそれほど強い馬ではない。春は仕上がりが順調で好成績を収めてきたが、秋には相手の進境が著しい。春シーズンとは事情が異なっている」と語った。11月13日の菊花賞は、厩務員組合がストライキを決行、調教師会長の武田も事態の収拾に当たり、解決したのは競走の2時間前という異様な状況下で行われた。コダマは1番人気に支持されたが、キタノオーザの5着と敗れ、三冠は成らなかった。 年末にはグランプリ競走・有馬記念にファン投票1位で出走したが、当日は5番人気と評価を落とし、結果も牝馬スターロッチの6着に終わった。4戦全敗となった秋の成績を、武田は「特急コダマどころか各駅停車にも劣る」と評したが、クラシック二冠が評価され、コダマは当年の年度代表馬と最優秀4歳牡馬に選出された。 5歳となった1961年は、3月の復帰戦大阪杯、天皇賞(春)への前哨戦スワンステークスを連勝し、評価を再び高めた。しかし天皇賞を前に右前脚に屈腱炎を発症し、休養を余儀なくされる。温泉療養の後、秋の天皇賞に備えて9月15日に東京競馬場に入ったが、調教中に屈腱炎が再発し、再度休養に入った。翌1962年4月、オープン競走で復帰しメジロオーの2着。天皇賞(春)を回避してオープン競走を2連勝したのち、当時創設3年目の宝塚記念を制した。しかし競走後に肩などを痛め、これを最後に競走生活から退いた。
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