ローラ、ミナルディ時代、引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 07:45 UTC 版)
「ミケーレ・アルボレート」の記事における「ローラ、ミナルディ時代、引退」の解説
1993年 前年の活躍がありスクーデリア・イタリアのシートを確保、チームメイトにF3000チャンピオンの新人ルカ・バドエルが加入し新旧イタリアンコンビとなった。しかしこの年に使用したローラ製シャシー「T93/30」はホイールベースが3030mmと長大すぎる欠点があり、予選通過にも苦しむ出来であった。搭載するフェラーリV12エンジンとのマッチングも最悪であった。本家フェラーリも大不振のシーズンであり「カスタマーエンジン」はそれに輪を掛けたようにパワーが無く、5回の予選落ちを喫し決勝での入賞は一度もなかった。この年終盤には同じく資金難にあえぎF1参戦危機となったミナルディとのチーム合併へ向けた作業が本格化し、第14戦ポルトガルGPでヨーロッパラウンドが終了すると、スクーデリア・イタリアは終盤2戦(日本・オーストラリア)の渡航費用を捻出できずF1から撤退したため、アルボレートも欠場となった。予選成績ではバドエルに対し6勝8敗であった。 同年シーズン終了後の11月、リカルド・パトレーゼと契約終了し翌年に向けてエースとなったミハエル・シューマッハのチームメイトを探していたトップ4チームの一角であるベネトンからテストドライブのオファーを受けた。12月13日からカタロニア・サーキットでベネトン・B193を4日にわたって走らせ、延べ222ラップを担当。ベネトンのオーナーであるイタリア出身のルチアーノ・ベネトン(英語版)は、イタリア人ドライバーであるアルボレートの獲得を希望し、シューマッハも若いチームメイトではなく経験豊かなアルボレートの加入を強く推していた。この合同テストではJ.J.レートもオーディションとしてベネトンで走行しており、ベストラップ(アルボレート1分19秒77、レート1分18秒66)で1秒以上アルボレートを上回ったレートがベネトンに選ばれ、アルボレートはこのあと母国のミナルディと交渉することになった。また、ミカ・ハッキネンのパートナーが決定していなかったマクラーレンのロン・デニスとも交渉したという。 1994年 トップチームのシートは得られず、前年所属したスクーデリア・イタリアと合併したミナルディから参戦することになった。ローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの死亡事故が発生した第3戦サンマリノでは、決勝レース中にタイヤ交換を終了したアルボレートの後輪がピットアウト時にホイールごと外れてしまい、高速で転がったタイヤホイールが他チームのメカニックにぶつかったため複数の負傷者が出てしまった。この事故はそれまで無制限だったピットレーンでの制限速度規制をF1に導入するきっかけとなった。第4戦モナコではサバイバルレースを生き残り、6位入賞を果たす。しかし、その後はミナルディ・M194の非力さもあり目立った活躍は出来ず、この年をもってF1からの引退を表明した。
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