レースキャリアの終盤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 05:26 UTC 版)
「スモーキー・ユニック」の記事における「レースキャリアの終盤」の解説
ユニックのメカニック兼オーナーとしての活動はストックカーは1969年、インディカーは1973年までである。1960年代末期はバンキー・ブラックバーン(英語版)のドライビングで多くのストックカー競技に参加している。特筆すべき事績としては、ユニックは1967-68年式シボレー・カマロ (初代)(英語版)Z-28をTrans-Amシリーズ(英語版)向けに改造。この車両はTrans-Amでこそ未勝利に終わったが、1967年10月のボンネビル・ソルトフラッツでは174マイル/時(280km/h)の世界記録を叩き出した。この年はバート・マンローが1,000cc級オートバイでの世界記録を樹立した年でもある。ユニックは302ciのスモールブロックと396ciのシボレー・ビッグブロックエンジン(英語版)のV8を持ち込んだため、記録上は305-488ciの市販車B級と188-305ciの市販車C級の双方に該当する可能性があり、場合によっては失格となりうる議論を巻き起こす可能性もあったが、ユニックはむしろそうした主催者との揉め事を楽しみにしている傾向すらあったという。後にこの車両はイェンコ・カマロ(英語版)などのハイチューン車の販売でも知られるチューナー兼ドライバーのドン・イェンコ(英語版)に売却され、幾つかのレースで勝利を記録している。この車両はユニックの典型的な流儀として、市販状態のカマロの車両重量の減少のために酸に浸されて厚さを薄くしたボディパネルと薄い窓ガラスを装着された。エアロダイナミクスの向上のためにフロントガラスはより下向きに傾斜され、4つのフェンダーは全て拡幅され、フロントの車高を下げるためにフロントサスペンション自体をより高い位置にマウントできるZ形状のサブフレームが与えられた。フロアパンはローダウンに併せてより上方に取り付け直され、その他の多くの改良が施された。ユニックの空力設計への拘りを示す改良として、ドリップレール(ルーフの雨樋)すらもエアロダイナミクスを向上するための形状変更が行われた。エンジンオイルシステムへのコネクタがキャビンの内部に引き込まれ、ドライバーがピットストップ中にエンジンオイルを加圧ホースを用いて補充できるようになっており、シートベルトはドライバーの安全性を担保しながらも運転の自由な動きを妨げないように、肩ハーネスは軍用ヘリコプターからケーブルラチェット機構を含む形で改良されて取り付けられた。この車両は1993年にエーデルブロック(英語版)創業者であるビック・エーデルブロック・ジュニア(英語版)の手でレストアされている。ユニックは1960年代の初頭には後のSAFERバリア(英語版)の先駆けとも言える最初期の「セーフ・ウォール」をベニヤ板と古タイヤを用いて設計するも、よりスリルを求める当時のNASCARファンの世論に反していた事もあり、当時のNASCARはこの提案を受け入れる事は無かった。ユニックは1961年にはストックカー用のエアージャッキを発明しているが、NASCARはこれも適切とは判断せず、現在に至るまで人力以外のジャッキを認可していない。 1969年にはカーナンバー#13のフォード・マスタングでグランド・アメリカンシリーズ(英語版)に参戦し、タラデガ・スーパースピードウェイでの「Bama 400」にてポールポジションを獲得しているが、本戦はロッカーアーム破損によるエンジンブローで途中棄権に終わった。このマスタングはボス302・マスタング(英語版)と呼ばれる、当時複数存在したレース参戦のための特別グレードの1つであったが、ユニックは車体購入時に装着されているフォード謹製のレース用特別装備の殆どがNASCARのレースには何の役にも立たないと判断して放棄し、オリジナルの状態で維持されているのは定番のカラーリングである黒金ツートーンカラーの黒の部分のみ、と言える程車体のあらゆる個所に徹底した手が加えられたという。NASCARスプリントカップからストックボディ車が事実上締め出されていく中、ユニックにとってはグランド・アメリカンやTrans-Amはポニーカー(英語版)という市販車両そのものの車体で勝負できる数少ない場であったが、グランド・アメリカンは1972年をもってシリーズ消滅、Trans-amも1972年のTrans-amシーズン(英語版)を最後にシリーズの大幅な縮小を余儀なくされてしまう。 アメリカではポニーカーによるストックカーレースは1972年の「黄金期」を最後に終焉したと考えられており、IMSA GTチャンピオンシップ(英語版)などのより高度なスポーツカーレースの台頭、1971年8月のニクソン・ショックによるブレトン・ウッズ体制の崩壊に始まる米国内の輸出産業の低迷、最後には1973年10月の1973年石油危機(英語版)と自動車排出ガス規制によって、アメリカ車のマッスルカー市場は致命的な打撃を受け、その後はポルシェやフェラーリ等の富裕層向けのエキゾチックカーと、ダットサン・510(英語版)に代表される安価で高性能な日本車やアルファロメオ・105/115シリーズ・クーペ(英語版)に代表される小柄なヨーロッパ車がアメリカのツーリングカーレースシーンを席巻していくようになる。ユニックはストックカーから次第に手を引いていった理由について余り詳細を書き残していないとされるが、この時期を境にチームオーナーとしての活動を辞め、若手のプライベーターに細々と自身の手掛けたポニーカーを供給するのみとなった。ユニックが手掛けた車両の最後の目立った参戦記録は、ユニックの親友であったA.J.フォイトが出資者として付き、オレンジ色に塗装されたカーナンバー#79の1970-71年式カマロZ-28で、スウェード・サベージ(英語版)が1971年のTrans-amワトキンズ・グレン戦へ出走した事である。
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