ヨーロッパ外での作戦計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 03:02 UTC 版)
「ドイツ海軍小型戦闘部隊」の記事における「ヨーロッパ外での作戦計画」の解説
大戦末期、全ての前線で敗北を重ねているにも関わらず、あるいはそれ故に、ドイツ海軍ではアメリカ爆撃機計画と同種の現実離れした戦争計画を立案するようになり、ヨーロッパを超えた全世界規模での攻撃・作戦展開の可能性を模索し始めた:168。新式ヴァルター機関の発明など、技術の進歩も海軍の姿勢に影響を及ぼしていた可能性がある。配備された小型戦闘装備の改良も続けられ、とりわけビーバーII、ビーバーIII、ゼーフントIIの考案は、純粋に技術的に言えば、K戦隊の作戦行動範囲を大きく拡大することに繋がるはずだった:101。 連合国軍によるノルマンディー上陸の後、ドイツ側の情報機関は、冥王星作戦(英語版)の際に英仏軍が敷設した海底石油パイプラインへの破壊工作を計画した。計画では、フックを海底に垂らしたK戦隊所属の人間魚雷が当該海域を航行することでパイプラインを見つけ出すこととされた。当初はこれをニポライト爆薬によって破壊することとされていたが、まもなくして撤回され、ダイバーが腐食性の薬品をパイプ内に混入する作戦に改められた。この無色透明な薬品の混入した燃料を使用すると、エンジンが始動時に損傷するのである。理想的には数千台もの連合国軍車両に影響を及ぼすとされた:167:203。 K戦隊の自己犠牲的な投入を前提とした作戦案としては、スエズ運河に対するビーバー1隻での攻撃計画もあった。ビーバーはBV 222飛行艇によって当該海域近くまで運搬された後、通過を試みる大型商船を雷撃し、以て運河を封鎖することとされ、生還の可能性は皆無とされていた。商船の残骸により、補給物資を運ぶ連合国軍輸送船の通過が数週間ほど妨げられ、イタリア戦線のドイツ軍に余裕が生まれることが期待された。しかし、投入予定だったBV 222飛行艇のエンジンが、工場での最終チェックを受けている最中に爆撃によって破壊されたため、海軍総司令部はやむを得ず作戦を中止した:93:168。 そのほか、ニューヨーク沖に8人から10人程度のフロッグマンを派遣し、機雷によって湾内の船舶を撃沈ないし損傷させる攻撃計画、パナマ運河の水門破壊計画、Go 242グライダーによるスカパ・フローへのリンゼ特攻艇の投下計画なども立案されていた。世界中のあらゆる国への攻撃が可能であるべきだとされていた。1945年1月下旬、特命を帯びた戦闘漁船KfK 203号が、ノルウェー船に偽装した上でハーシュタを出発し、ペルシア湾へと向かった。KfK 203にはK戦隊所属のフロッグマン12人が乗り込んでいた。数週間後、KfK 203はアフリカ西海岸から海軍総司令部へとクルツジグナール(ドイツ語版)による通信を行ったものの、まもなくして消息を絶った:169:205。 1945年4月中旬、デーニッツに与えられた最後の指令は、ヒトラーの護衛班を編成せよというもので、この際にK戦隊員からの選抜が行われた。当時、ヒトラーは長らく護衛を担当してきたSSライプシュタンダーテへの信頼を失っていた。4月27日、ベルリンへと派遣するべく、選びぬかれたK戦隊員30人がレリク(ドイツ語版)飛行場に集結した。しかし、Ju 52輸送機のうち1機を用いて行われた先行偵察により、既にベルリンに着陸可能な滑走路がないことが明らかになった。ブランデンブルク門前の東西大通り(Ost-West-Achse)には辛うじて着陸が行えるようにも思われたが、ソ連邦赤軍による猛烈な対空砲火を受け、Ju 52は撤退を余儀なくされた。4月28日、改めて偵察が行われていたが、既に多数の砲弾穴があることから、着陸は不可能とされた。4月29日、落下傘による降下が計画されたものの、炎上する市街地から立ち上る黒煙で視界が遮られており、降下不可能と判断された。派遣はさらに1日延期されたものの、4月30日にはヒトラーの自殺により護衛班も不要となり、全ての計画が取り消された:170:206。
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