ヨーロッパ外遊とは? わかりやすく解説

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ヨーロッパ外遊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 02:57 UTC 版)

棚橋小虎」の記事における「ヨーロッパ外遊」の解説

1922年棚橋渡欧友愛会本部撮影され写真前列左から松岡駒吉鈴木文治棚橋小虎麻生久野坂参三加藤勘十山本懸蔵後列左から3人目赤松克麿2人おいて上条愛一1921年末に麻生提案棚橋外遊資金調達のために、渡欧記念論集として『新社会秩序へ』の出版行った。この論集は、棚橋小虎知っている学者評論家社会主義者らに寄稿してもらい、印税棚橋外遊資金充てることとしていた。尚、論集には、山川均高野岩三郎北沢新次郎荒畑勝二・赤松克麿堺利彦上田貞次郎長谷川万次郎米田庄太郎大山郁夫片上伸安部磯雄佐野学新居格石本恵吉・末弘巌太郎加えて麻生寄稿している。この記念論集印税のほか、棚橋三高時代先輩中俣正男や、孝子の父である岸井品八などから支援受けて洋行費用工面した。こうして棚橋渡欧目途が立つこととなり、1922年7月13日門司出港して上海8月24日マルセイユ経て9月10日ベルリン到着した棚橋ベルリン到着後高野岩三郎紹介受けていた森戸辰雄らの出迎えを受けると共に大内兵衛石浜知行山崎一雄などに会っている。このベルリンでは、ソ連でも通用するというドイツ語練習のためにドイツ語学校に通っている。11月ジュネーヴに赴き、その頃開催されていた第4回ILO会議日本労働総同盟理事信任状持参した上で森戸及び浅利四郎の手借りて各国代表歴訪し日本政府憲章違反暴露した。これは日本労働代表として赴いていた田澤義鋪資格について抗議したものであった12月中毒腸出血になり、伊藤清看病あたった1923年4月棚橋ベルリン大学哲学科入試受けて合格したが、同時期にソ連からの入国許可得た。これは、赤色労働組合インターナショナル中央執行委員で、当時日本戻っていた山本懸蔵代理をすることが目的であり、この関係で少し前の2月片山潜会っていた。棚橋入国許可受けて7月リガ経てモスクワ入り国際農民大会日本農民組合代表であった大西俊夫通訳資格出席した。この時期ホー・チ・ミン交わり以降友好関係を築くこととなった9月に入ると関東大震災報せ棚橋伝わり、更に10月には発熱苦しんだこともあって、帰国決意するようになった11月棚橋モスクワ出発しシベリア鉄道シベリア横断をすることになった中途越境の際の面倒に備えて車窓から日記含めた一切書類処分した棚橋日記に「ソ連発って日本帰る決めた時、日本改造については一応の構想纏めていた。日本改造ボルシェビズム共産主義革命)に依るべきではない。これは日本国情合わない民主主義によって社会主義実現目指すべきである。」と記している。棚橋は「満州」の日本領事館入国許可を待つことになったが、日本総領事務めていたのがたまたま松本中学校時代先輩であった田中文一郎であり、この縁もあって入国許可速やかに行われた帰国後、棚橋1924年1月京都に赴き、京都大学医学部診察受けた結果肺尖部に病巣が見つかり、療養の必要を宣告された。棚橋兵庫県津名郡洲本町岡林次郎訪ね洲本療養の地と定めて移住行った以降一年間療養行い、健康を回復させて同所弁護士を開業して活動再開させた。

※この「ヨーロッパ外遊」の解説は、「棚橋小虎」の解説の一部です。
「ヨーロッパ外遊」を含む「棚橋小虎」の記事については、「棚橋小虎」の概要を参照ください。

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