ヨーロッパ外遊
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1922年、棚橋の渡欧を友愛会本部で撮影された写真。前列左から松岡駒吉・鈴木文治・棚橋小虎・麻生久・野坂参三・加藤勘十・山本懸蔵、後列左から3人目赤松克麿・2人おいて上条愛一。 1921年末に麻生の提案で棚橋の外遊資金調達のために、渡欧記念論集として『新社会的秩序へ』の出版を行った。この論集は、棚橋小虎を知っている学者や評論家、社会主義者らに寄稿してもらい、印税を棚橋の外遊資金に充てることとしていた。尚、論集には、山川均・高野岩三郎・北沢新次郎・荒畑勝二・赤松克麿・堺利彦・上田貞次郎・長谷川万次郎・米田庄太郎・大山郁夫・片上伸・安部磯雄・佐野学・新居格・石本恵吉・末弘巌太郎に加えて麻生が寄稿している。この記念論集の印税のほか、棚橋は三高時代の先輩の中俣正男や、孝子の父である岸井品八などから支援を受けて洋行費用を工面した。こうして棚橋は渡欧の目途が立つこととなり、1922年7月13日に門司を出港して上海、8月24日にマルセイユを経て、9月10日にベルリンに到着した。 棚橋はベルリン到着後、高野岩三郎に紹介を受けていた森戸辰雄らの出迎えを受けると共に、大内兵衛・石浜知行、山崎一雄などに会っている。このベルリンでは、ソ連でも通用するというドイツ語の練習のためにドイツ語学校に通っている。11月にジュネーヴに赴き、その頃開催されていた第4回ILO会議に日本労働総同盟理事の信任状を持参した上で、森戸及び浅利順四郎の手を借りて各国代表を歴訪し、日本政府の憲章違反を暴露した。これは日本の労働代表として赴いていた田澤義鋪の資格について抗議したものであった。12月に魚中毒で腸出血になり、伊藤清が看病にあたった。1923年4月、棚橋はベルリン大学哲学科の入試を受けて合格したが、同時期にソ連からの入国許可も得た。これは、赤色労働組合インターナショナルの中央執行委員で、当時日本に戻っていた山本懸蔵の代理をすることが目的であり、この関係で少し前の2月に片山潜に会っていた。棚橋は入国許可を受けて、7月にリガを経てモスクワに入り、国際農民大会に日本農民組合代表であった大西俊夫の通訳の資格で出席した。この時期にホー・チ・ミンと交わり、以降友好関係を築くこととなった。9月に入ると関東大震災の報せが棚橋に伝わり、更に10月には発熱に苦しんだこともあって、帰国を決意するようになった。11月、棚橋はモスクワを出発し、シベリア鉄道でシベリア横断をすることになった。中途、越境の際の面倒に備えて車窓から日記も含めた一切の書類を処分した。棚橋は日記に「ソ連を発って日本へ帰ると決めた時、日本改造については一応の構想を纏めていた。日本の改造はボルシェビズム(共産主義革命)に依るべきではない。これは日本の国情に合わない。民主主義によって社会主義の実現を目指すべきである。」と記している。棚橋は「満州」の日本領事館で入国許可を待つことになったが、日本総領事を務めていたのがたまたま松本中学校時代の先輩であった田中文一郎であり、この縁もあって入国許可は速やかに行われた。 帰国後、棚橋は1924年1月に京都に赴き、京都大学医学部で診察を受けた結果、肺尖部に病巣が見つかり、療養の必要を宣告された。棚橋は兵庫県津名郡洲本町の岡林次郎を訪ね、洲本を療養の地と定めて移住を行った。以降約一年間療養を行い、健康を回復させて同所で弁護士を開業して活動を再開させた。
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