ファルサーリと横浜写真
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/25 16:14 UTC 版)
「アドルフォ・ファルサーリ」の記事における「ファルサーリと横浜写真」の解説
ファルサーリは写真について姉妹に宛てた書簡に「写真を撮るということは、単純に機械的なことだ」と書いている。写真家として自分の作品を評価するにあたり「私には写真の教師はおらず、すべて本から学んだ。必要な機材はすべて購入し、誰からの助けもなしに現像し、撮影した。そうして私は他の人々に教えることができるまでになったのだ」と彼は述べている。 もちろん、ファルサーリは独自の孤立した活動をしていたわけではない。1860年代から1880年代まで、ファルサーリ同様横浜で活動していた多くの外国人、日本人商業写真家たちの写真(特に彩色写真)やその作風は「横浜写真」と呼ばれるようになる。ファルサーリや、ベアト、シュティルフリート、玉村康三郎、日下部金幣、小川一真、内田九一といった写真家は、その構成や着色において西洋的写真技術と浮世絵などの日本の伝統芸術との融合を主眼とした作品を産みだした。 これらの写真は明治時代の日本、そして当時の日本人に対する諸外国の印象を構成する重要な要素となる。興味深いことに、これらの写真は日本人が自分たちの国を見つめ直すきっかけにもなった。 さらにこういった写真を通じて、各国の写真家が自分たちが興味を持った日本の風景や、それまでほとんど意識されていなかった諸外国からの日本人に対する関心をひきだすこととなった。当時から今にいたるまで有名なモチーフは鎌倉高徳院の大仏像や、かつては拝観が制限されていた徳川将軍家霊廟の日光東照宮である。 ファルサーリを始め19世紀の商業写真家たちは、被写体の主題を選定するにあたって二つのことを意識していた。それは日本の美しい景観と、そこに暮らしている人々の風俗風習である。これらの主題は日本に対する外国人の趣味嗜好に合わせて選ばれた。写真家の個人的な美意識、好み、思い入れとは関係なく、単に実利的な理由からであった。 写真制作には金がかかり、当然ながら購入するにも金がかかったのである。1870年代の日本では肖像写真の価格は撮影されている人数で決まっており、一人当たり2分(にぶ、1両の半分)で、これは当時の熟練した職人の1か月分の給金とほぼ同じである。 このような高価な価格であったため当時の日本人で購入するものはほとんどおらず、顧客のほとんどは植民地行政官、宣教師、貿易商、軍人といったヨーロッパやアメリカ出身の外国人居留者であった。 その後1870年代初めごろには観光客も顧客となっている。観光客にアピールするために写真家たちは撮影の際に不自然な演出を行うことがよくあり、特に日本の「風俗と風習」を撮影した写真にその傾向が強い。 1885年にチャールズ・J・S・マーキンは日本旅行記である『Land of the Rising Sun, Being a Short Account of Japan and the Japanese』の中で、ファルサーリの写真をもとに描かれたイラストを使用している。 写真製版技術がまだ発達していなかった時代には、写真をもとに絵画やイラストを描くことはごく一般的なことであった。画家、漫画家であったチャールズ・ワーグマンは、友人でときにはパートナーでもあったフェリーチェ・ベアトの写真から多くの絵を描き、『イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ (Illustrated London News) 』に寄稿している。写真とその写真をもとに描かれた絵画との関連性は公にはされなかったことも多かった。フランス人画家のルイ=ジュール・デュモラン(Louis-Jules Dumoulin)が1888年に描いた『横浜・端午の節句 ( Boys' Festival from the Bluff, Yokohama ) 』という油絵は、ファルサーリの写真の『京都・祇園町 (Gionmachi, Kioto ) 』から多くのモチーフを持ち込んでいる。 この絵は京都を撮影したファルサーリの写真に非常によく似ているため、現在では題名の地名が変更され『京都の鯉のぼり (Carp Banners in Kyoto) 』と呼ばれている。 撮影技術が発達し、誰でも写真撮影ができるようになる以前は、ファルサーリのような商業写真家は重要な出来事や風景の記録者として非常に大きな存在であった。1899年までの日本では、彼らのような写真家は特に重要であった。明治政府が外国人は日本国内を旅行する際には通行許可証が必要であるとしたため、日本で活動する商業写真家は逆にその通行許可証を用いて立ち入りが制限されていた場所にも入ることが可能で、貴重な写真を撮影することができたのである。しかしながらファルサーリは、1889年には横浜を訪れる旅行者のおよそ半数は素人写真家だろうと予想し、素人写真家の数が増えることによって商業写真のビジネスが大きな影響を受けるのは明らかだと考えた。ファルサーリはこういった素人写真家に自分のスタジオを訪れさせ、何とかして商品を売るために、暗室を開放し誰でも使用できるようにした。 19世紀の写真家たちは、入手した他人の写真を自分の作品として販売することが頻繁にあったため、現存する写真がファルサーリの作品かどうかを識別するのは困難である。このことは様々な商業写真家同士の、在庫やネガのごくありふれた交換によるものかも知れず、フリーの素人写真家が複数のスタジオに自分の写真を売ったことによるものかも知れない。 現在ファルサーリの作品だと見なされている写真が、実はベアト、シュティルフリート・アンド・アンデルセンスタジオ、あるいは日下部の作品という可能性もある。 『士官の娘 (Officer's Daughter) 』と呼ばれる写真は、ファルサーリ、シュティルフリート、日下部など様々な写真家の作品といわれており、はっきりしていない。 ファルサーリ商会はその活動期間を通じて、日本の写真技術が外国の写真家に密接に関係しその影響を受けていた初期の時代から、日本が独自の写真技術を確立するまでの時代という、日本の写真技術発展の転換期に大きな役割を果たした。最初期の写真家たちに続いて、優れた機材の使用、美術品とも称されるアルバムに収められた洗練された写真、スタジオの作品の販売を促進するファルサーリ独自の観光客に向けた出版物などにより、ファルサーリ商会は日本における商業写真の発展に著しい貢献を果たした。
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