ファルサルスの戦い以降とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ファルサルスの戦い以降の意味・解説 

ファルサルスの戦い以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 13:41 UTC 版)

ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)」の記事における「ファルサルスの戦い以降」の解説

タプススの戦い」および「ムンダの戦い」も参照 紀元前47年のうち、1か月エジプト過ごしたカエサルは、ローマ内戦間隙を突く形でポントスファルナケス2世ローマ領へ侵攻したのを受けてシリア属州経てポントス向かいファルナケス2世ゼラの戦い勝利この際カエサルローマ友人来た、見た、勝ったという内容の手紙を送っている。ファルナケスボスポロス王国まで退去して、スキタイ族とサルマタイからなる軍を構成しいくつかの都市支配下置いたが、軍内部人間によって殺害された。 紀元前47年カエサルは北アフリカ・ウティカに逃れた元老院派残党追討するため出発。メテッルス・スキピオらが率い元老院派及びユバ1世率いヌミディア連合軍紀元前46年4月タプススの戦い撃破し、メテッルス・スキピオ、アフラニウスらは殺害された。さらにカエサル軍はウティカ攻撃しウティカ籠城していたカト支えきれずに自殺ユバ逃亡図ったがペトレイウスと共に自殺してヌミディア王国断絶したポンペイウス長男グナエウス・ポンペイウス次男セクストゥス・ポンペイウス、そしてティトゥス・ラビエヌスらはヒスパニア逃れて当地で兵を集めたヒスパニア守備していたガイウス・トレボニウス圧迫する勢いであったため、紀元前46年夏に凱旋式終えたカエサルヒスパニア出兵し、紀元前45年3月ムンダの戦い元老院派撃破しラビエヌス戦死グナエウス・ポンペイウス逃亡途中で殺害された。セクストゥス大西洋岸まで逃亡したものの、ムンダでの勝利を以て一連の内乱終結見た

※この「ファルサルスの戦い以降」の解説は、「ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)」の解説の一部です。
「ファルサルスの戦い以降」を含む「ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)」の記事については、「ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ファルサルスの戦い以降」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ファルサルスの戦い以降」の関連用語

ファルサルスの戦い以降のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ファルサルスの戦い以降のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS