パトリシア・リン計画とは? わかりやすく解説

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パトリシア・リン計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 19:05 UTC 版)

B-57 (航空機)」の記事における「パトリシア・リン計画」の解説

B-57当初から爆撃機として開発されたため、空中戦が行われる空域近くには配備されなかったが、南ベトナム配備され最初B-57数機は偵察目的として、空中戦起こりうる空域あたりで運用された。南ベトナムはさらに追加偵察機で特に夜間運用可能なものを必要としたため1963年4月15日に2機のRB-57Eが配備された。アメリカ空軍ジェネラル・ダイナミクス社に命じ、2機のB-57E(55-4243、55–4245)を全天候高高度戦略偵察機改造する計画進めた。この2機はリコノファクスMk.IVカメラ(Reconofax VI)を使用して赤外線防いだジェネラル・ダイナミクス社が選定されたのは、RB-57DおよびRB-57Fプロジェクトキャンベラ改造しB-57高高度偵察機に変えたことがあったためであったB-57E機首部は、U-2使用されているKA-1 36インチ前方傾斜カメラと低パノラマのKA-56カメラ収容するように変更された。特別に再設計された爆弾倉扉の内側には、KA-1縦型カメラ、K-477分割縦型昼夜カメラ赤外線スキャナー、およびKA-1斜めカメラ取り付けられた。この改造受けた2機はRB-57Eに再指定された。 第2航空部隊戦術情報躍起となって求めた。RB-57Eが前線到着すると、パイロットはすぐ部隊戦闘員として割り当てられ部隊情報局将校偵察飛行を行う際の任務について説明受けた最初の任務1963年5月7日行われたもので、第33戦術航空群、後に6250戦闘支援航空群、後に460戦術偵察航空団構成され極秘部隊通称をパトリシア・リン飛行隊とする第1分遣隊によって、タンソンニャット空軍基地から飛行された。分遣隊ベトコン本拠地工場保管所と訓練場特定するために夜間の偵察任務運用した。この偵察により、思わぬ発見もたらされた。夜間撮影され画像には、昼間偵察したRF-101ブードゥー搭乗員発見できなかった小さな工場保管用のダンプなど、本拠地訓練場写っていた。1963年当時配備されていたRF-101は、非常に低く飛ばなければ偵察できず、1回飛行時にカメラで数キロしか撮影できなかった。これに対しRB-57Eは、カンボジアとの国境全体16,00017,000フィートで1飛行時の半分画像処理可能だったそれ以来、パトリシア・リンに関わる搭乗員は、南ベトナムラオスカンボジア北ベトナム地域巡り1971年まで昼夜問わず任務出撃した。RB-57Eは、コールサインムーングロウ (Moonglow)」で飛行した一部任務は低高度で決まった1点偵察したが、殆どの任務4〜6個の特定のターゲット決めて行われた夜間は主にメコンデルタ南ベトナム南部地域偵察したが、暗闇視認困難だった運河搭乗員視認できさえすれば、「リアルタイム」のIRサンパン簡単に発見できた。 1965年4月3日アメリカラオス細長くなった地域非武装地帯で「スティールタイガー作戦」を開始した南ベトナム南へ移動する途中で発見され秘密裏攻撃加えられ敵軍において、爆弾被害調査という任務をRB-57Eは与えられた。これの任務には、ビエンホア空軍基地から運用されているB-57Bと、フレアによる後方撹乱機のC-130ハーキュリーズチーム組んだその後さらに3機が1964年65年改造を受け、RB-57Eは5機になった。 5機のうち2機のRB-57Eが戦闘失われた最初に失われた55-4243号機は、1965年8月の低高度偵察任務中に小火器による攻撃を受け、胴体から火災発生して失われた。タンソンニャット空軍基地近くであったため、乗員無事に脱出した。2機目は55-4264号機で、1968年10月15日地上火災エンジン火災招き乗員近寄れ全焼した損失埋めるため、55–4257号機が1968年チーム加わった。この機体には、航空機一定の高度で飛行できるように設計され地形追従レーダー搭載され理論的にはより優れた偵察写真生成することとなっていた。しかし非常に低い高度(5001000フィート)を飛行したため、偵察すべき地域全体撮影前赤外線フィルム使い果たしてしまった。 コンパス・イーグル(Compass Eagleプログラムのもとにおける1968年改修で、IRスキャナーシステムを監視するためのビデオ画面後部座席搭載された。この改修乗員画像化のたびに基地に戻る必要がなくなりリアルタイム標的攻撃できた。 12インチ焦点距離KA-82と24インチ焦点距離KA-83カメラ設置など、装置頻繁な変更追加があった。赤外線装置は、サイゴン南東にあるメコンデルタにおける夜間の水上交通を見つけるのに役立った1969年から70年にかけ、パトリシア・リン計画に基づく任務1969年バレルロール作戦が行われた、ラオスカンボジアを含む地域行われた計画関連の全作戦1971年半ば終了したB-57運用した460戦術偵察航空団は非作戦部化され残った4機は米国帰還した。 パトリシア・リン計画に用いられたRB-57Eで知られているものは以下の6機である。 B-57E-MA 55-4243 1963年にRB-57Eに改修1965年8月5日、第1分遣隊と第6250戦闘支援航空団と共に行った戦闘にて対空砲火浴び帰投中に発火して墜落した。 B-57E-MA 55-4245 1963年にRB-57Eに改修1971年6月CONUS返却。WB-57Eに改修1972年6月15日BM0069としてMASDCへ引退。 B-57E-MA 55-4237 1964年にRB-57Eに改修1971年6月CONUS返却。WB-57Eに変換1972年6月28日BM0070としてMASDCへ引退。 B-57E-MA 55-4249 1964年にRB-57Eに改修1971年6月CONUS返却。WB-57Eに変換1972年6月15日BM0068としてMASDCへ引退。 B-57E-MA 55-4264 1965年にRB-57Eに改修1968年10月25日、第1分遣隊と第460戦術偵察航空団共同行った戦闘にて、南ベトナムのトゥルクザン南西3マイル地点対空砲火浴びて墜落二人乗組員無事に脱出し救助された。 B-57E-MA 55-4257 1968年にRB-57Eに改修地形追従レーダー装備1971年EB-57E変換されユタ州ヒル空軍基地の第4677防衛システム評価飛行隊移動1979年にMASDCへ引退1965年8月後半に、グリークゴッド(Greek Godギリシャの神)計画のちマッドキング(Mad King狂った王)計画進められベトナム北部地対空ミサイル基地に関する情報収集目的として、RB-57Fがタイのウドーン空軍基地配備された。12月には、スカイウェーヴ(Sky Wave計画のもとで同様の目的のため、別のRB-57Fが配備された。どちらの計画目立った成果得られず、それぞれ1965年10月1966年2月終了した

※この「パトリシア・リン計画」の解説は、「B-57 (航空機)」の解説の一部です。
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