パトリシア・リン計画
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「B-57 (航空機)」の記事における「パトリシア・リン計画」の解説
B-57は当初から爆撃機として開発されたため、空中戦が行われる空域近くには配備されなかったが、南ベトナムに配備された最初のB-57数機は偵察を目的として、空中戦の起こりうる空域あたりで運用された。南ベトナムはさらに追加の偵察機で特に夜間運用が可能なものを必要としたため、1963年4月15日に2機のRB-57Eが配備された。アメリカ空軍はジェネラル・ダイナミクス社に命じ、2機のB-57E(55-4243、55–4245)を全天候高高度戦略偵察機に改造する計画を進めた。この2機はリコノファクスMk.IVカメラ(Reconofax VI)を使用して赤外線を防いだ。ジェネラル・ダイナミクス社が選定されたのは、RB-57DおよびRB-57Fプロジェクトでキャンベラを改造し、B-57を高高度偵察機に変えたことがあったためであった。B-57Eの機首部は、U-2で使用されているKA-1 36インチ前方傾斜カメラと低パノラマのKA-56カメラを収容するように変更された。特別に再設計された爆弾倉扉の内側には、KA-1縦型カメラ、K-477分割縦型昼夜カメラ、赤外線スキャナー、およびKA-1左斜めカメラが取り付けられた。この改造を受けた2機はRB-57Eに再指定された。 第2航空部隊は戦術情報を躍起となって求めた。RB-57Eが前線に到着すると、パイロットはすぐ部隊に戦闘員として割り当てられ、部隊情報局の将校が偵察飛行を行う際の任務について説明を受けた。最初の任務は1963年5月7日に行われたもので、第33戦術航空群、後に6250戦闘支援航空群、後に460戦術偵察航空団で構成された極秘部隊、通称をパトリシア・リン飛行隊とする第1分遣隊によって、タンソンニャット空軍基地から飛行された。分遣隊はベトコンの本拠地や工場、保管所と訓練場を特定するために夜間の偵察任務に運用した。この偵察により、思わぬ発見がもたらされた。夜間撮影された画像には、昼間に偵察したRF-101ブードゥーの搭乗員が発見できなかった小さな工場と保管用のダンプなど、本拠地と訓練場が写っていた。1963年当時に配備されていたRF-101は、非常に低く飛ばなければ偵察できず、1回の飛行時にカメラで数キロしか撮影できなかった。これに対しRB-57Eは、カンボジアとの国境全体を16,000〜17,000フィートで1飛行時の半分で画像処理が可能だった。 それ以来、パトリシア・リンに関わる搭乗員は、南ベトナム、ラオス、カンボジア、北ベトナムの地域を巡り、1971年まで昼夜を問わず任務に出撃した。RB-57Eは、コールサイン「ムーングロウ (Moonglow)」で飛行した。一部の任務は低高度で決まった1点を偵察したが、殆どの任務は4〜6個の特定のターゲットを決めて行われた。夜間は主にメコンデルタと南ベトナム南部の地域を偵察したが、暗闇で視認困難だった運河を搭乗員が視認できさえすれば、「リアルタイム」のIRでサンパンを簡単に発見できた。 1965年4月3日、アメリカはラオスの細長くなった地域と非武装地帯で「スティールタイガー作戦」を開始した。南ベトナムを南へ移動する途中で発見され秘密裏に攻撃を加えられた敵軍において、爆弾の被害調査という任務をRB-57Eは与えられた。これの任務には、ビエンホア空軍基地から運用されているB-57Bと、フレアによる後方撹乱機のC-130ハーキュリーズとチームを組んだ。その後さらに3機が1964年と65年に改造を受け、RB-57Eは5機になった。 5機のうち2機のRB-57Eが戦闘で失われた。最初に失われた55-4243号機は、1965年8月の低高度偵察任務中に小火器による攻撃を受け、胴体から火災が発生して失われた。タンソンニャット空軍基地の近くであったため、乗員は無事に脱出した。2機目は55-4264号機で、1968年10月15日に地上火災がエンジン火災を招き、乗員が近寄れず全焼した。 損失を埋めるため、55–4257号機が1968年にチームに加わった。この機体には、航空機が一定の高度で飛行できるように設計された地形追従レーダーが搭載され、理論的にはより優れた偵察写真を生成することとなっていた。しかし非常に低い高度(500〜1000フィート)を飛行したため、偵察すべき地域全体の撮影前に赤外線フィルムを使い果たしてしまった。 コンパス・イーグル(Compass Eagle)プログラムのもとにおける1968年の改修で、IRスキャナーシステムを監視するためのビデオ画面が後部座席に搭載された。この改修で乗員は画像化のたびに基地に戻る必要がなくなり、リアルタイムで標的を攻撃できた。 12インチの焦点距離KA-82と24インチの焦点距離KA-83カメラの設置など、装置の頻繁な変更や追加があった。赤外線装置は、サイゴンの南東にあるメコンデルタにおける夜間の水上交通を見つけるのに役立った。 1969年から70年にかけ、パトリシア・リン計画に基づく任務は1969年にバレルロール作戦が行われた、ラオスとカンボジアを含む地域で行われた。計画関連の全作戦は1971年半ばに終了した。B-57を運用した第460戦術偵察航空団は非作戦部隊化され、残った4機は米国に帰還した。 パトリシア・リン計画に用いられたRB-57Eで知られているものは以下の6機である。 B-57E-MA 55-4243 1963年にRB-57Eに改修。1965年8月5日、第1分遣隊と第6250戦闘支援航空団と共に行った戦闘にて対空砲火を浴び、帰投中に発火して墜落した。 B-57E-MA 55-4245 1963年にRB-57Eに改修。1971年6月にCONUSに返却。WB-57Eに改修。1972年6月15日BM0069としてMASDCへ引退。 B-57E-MA 55-4237 1964年にRB-57Eに改修。1971年6月にCONUSに返却。WB-57Eに変換。1972年6月28日BM0070としてMASDCへ引退。 B-57E-MA 55-4249 1964年にRB-57Eに改修。1971年6月にCONUSに返却。WB-57Eに変換。1972年6月15日BM0068としてMASDCへ引退。 B-57E-MA 55-4264 1965年にRB-57Eに改修。1968年10月25日、第1分遣隊と第460戦術偵察航空団と共同で行った戦闘にて、南ベトナムのトゥルクザン南西3マイルの地点で対空砲火を浴びて墜落。二人の乗組員は無事に脱出し救助された。 B-57E-MA 55-4257 1968年にRB-57Eに改修。地形追従レーダーを装備。1971年にEB-57Eに変換され、ユタ州ヒル空軍基地の第4677防衛システム評価飛行隊へ移動。1979年にMASDCへ引退。 1965年8月の後半に、グリークゴッド(Greek God、ギリシャの神)計画のちマッドキング(Mad King、狂った王)計画が進められ、ベトナム北部の地対空ミサイル基地に関する情報の収集を目的として、RB-57Fがタイのウドーン空軍基地に配備された。12月には、スカイウェーヴ(Sky Wave)計画のもとで同様の目的のため、別のRB-57Fが配備された。どちらの計画も目立った成果は得られず、それぞれ1965年10月と1966年2月に終了した。
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