ザグレートカブキとしてとは? わかりやすく解説

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ザ・グレート・カブキとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:53 UTC 版)

ザ・グレート・カブキ」の記事における「ザ・グレート・カブキとして」の解説

もともとは正統派堅実なファイトスタイルであったが、アメリカ遠征中の1981年初頭フリッツ・フォン・エリック主宰していたテキサス州ダラスのWCCWにおいて、マネージャーブッカーゲーリー・ハートアイデアで、歌舞伎役者モチーフにしたオリエンタル・ギミックのペイントレスラーザ・グレート・カブキThe Great Kabuki)に変身1981年1月10日ザ・スポイラー相手カブキとしてのデビュー戦行った当初ゲーリー側の思惑ではこのギミックは3ヶ月程で、次の大物を呼ぶまで繋ぎ役でしかなかった。 なお、カブキ名乗るレスラーアメリカでは1970年代初頭にも存在していたが(正体トーキョー・トムとしても活動していたフィリピン系のレイ・ウルバノ)、後の活躍によりこのリングネーム米良代名詞となる(初代の「ザ・カブキ」と米良1972年ごろデトロイトタッグ組んだことがあるという)。また、ペイントレスラー元祖とされているが、カブキ以前にもペイント施して試合を行うレスラーはいた。しかし、コンスタントペイントレスラーとして活動し流行のきっかけ作ったのはカブキあり、かつてのパートナーであるマサ斎藤ワールドプロレスリング解説時に「僕も昔、顔に塗ってこういうスタイルファイトしてました。外人には受けるんですよね。カブキ以前にもいたことはいるんですけどね。でもやっぱり彼が元祖ですよ」と語っている。 般若の面付けた連獅子姿や鎖帷子日本刀携えた忍者スタイルなどをコスチュームに、ヌンチャク操り毒霧を吹く東洋怪奇ヒールとして異色悪党人気博し、WCCWでは1981年チャン・チュンこと桜田一男組んでケビン・フォン・エリック&デビッド・フォン・エリックからテキサス版のNWA世界タッグ王座奪取同年9月25日にはケリー・フォン・エリック破りNWAアメリカン・ヘビー級王座獲得している。 以降もWCCWを主戦場に、ビル・ワット主宰MSWAジム・バーネット主宰GCWジム・クロケット・ジュニア主宰のMACWなど各地激戦区にも参戦してアンドレ・ザ・ジャイアントブルーザー・ブロディハーリー・レイスダスティ・ローデスリック・フレアートミー・リッチ全米トップスター対戦MSWAでは1981年10月ボブ・ループからルイジアナ・ヘビー級王座奪取しGCWではヒール時代ロディ・パイパージェイク・ロバーツとも共闘1982年12月25日にはGCW本拠地アトランタオムニ・コロシアムにてマスクド・スーパースター&スーパー・デストロイヤーパートナーに、アンドレスタン・ハンセンティト・サンタナ組と6人タッグマッチ対戦した。WCCWでは1983年1月3日アル・マドリルからTV王座を、1月14日にはバグジー・マグローからブラスナックル王座それぞれ奪取。MACWでは同年5月23日ジョー・ルダック下してNWAミッドアトランティックTV王座獲得11月24日の『スターケード第1回大会においてチャーリー・ブラウン敗れるまで戴冠したその間1983年2月ジャイアント馬場から帰国命令出たため、全日本プロレス凱旋帰国当時全日本プロレスブッカーだった佐藤昭雄進言で、アメリカからの逆輸入の形でカブキギミックのままリング登場し2月11日後楽園ホールにてジム・デュラン破り帰国第一戦を飾る。以降アメリカでの活躍もあって日本でもファン支持獲得専門誌だけでなく一般誌にも取り上げられ子供向け印刷媒体にまで登場するなど、馬場ジャンボ鶴田にも引けを取らない人気集めた同年12月12日には蔵前国技館大会(『'83世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦)のセミファイナルにおいて、アメリカで対戦していたフレアー保持するNWA世界ヘビー級王座挑戦した。 しかし本人にとっては、待遇面においては決し満足できる扱いではなかったという。「若手コーチ役を請け負っているから」という理由馬場提示したギャラアップ額が「1試合100円増(後に500円)」だったというエピソードのほか、カブキ凱旋帰国シリーズTV放映料を除く興行収益2月シリーズでは全日本プロレス設立以来初の黒字馬場欠場していたのにも関わらずになったり、一般マスコミからのTV出演依頼殺到したしたため馬場を含む先輩レスラー達の嫉妬買ってしまい、配給会社から名指し出演依頼され映画カランバ』のプロモーション映画CM真似て、腕にロープ巻きジープ引っ張ってどこまで耐えられるか、というイベント)においても、出演に関して直前までもめたことなどが明かされている。しかしながら馬場カブキ技能高く評価し若手選手に「カブキ試合をよく見ておけ」などと言っていたといわれ、カブキも「プロレスが一番巧い思ったのも馬場さんだ」と回顧するなど、レスラーとしてはお互い認め合っていた。 その後ダラスのWCCWと全日本プロレス行き来する形となり、1985年頃からは日本定着しつつあったが、長州力率いジャパンプロレス参戦や、WCCWが新日本プロレス提携したことなどもあって扱いはさらに悪くなり、一時期造反してテリー・ゴディ共闘するなど外国人サイドに加わるが、ギャラはゴディに比べて格段に低かったと言われる[要出典]。以降長州らの新日本復帰前後全日本正規軍戻される形となり、天龍同盟との試合などで再度脚光を浴びたが、1990年7月30日全日本プロレス退団。この直前7月19日『サマー・アクション・シリーズ』武生大会では、鶴田組んでゴディ&スティーブ・ウィリアムスから世界タッグ王座奪取していたが、防衛戦行わないまま返上となった。これには理由があり、当時既にSWSへの移籍極秘裏に成立させていたカブキは同じ全日本からの退団者監視役として、1番最後に辞める事としていた。その間相次ぐ選手離脱を防ぐ為、馬場社長複数年契約提示する同時に締結した者には金を渡しており、カブキには世界タッグ王座への挑戦ちらつかせてきた。長年冷や飯食わされてきたカブキ報復の意を込めてあえてこれを承諾しタッグ王座獲得した翌々日馬場辞表突きつけた。その際、「だったら渡した金は返せ。」と言われた為、ギャラ返済している。

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