ゴムでの時代と恩師とは? わかりやすく解説

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ゴムでの時代と恩師

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 23:53 UTC 版)

モルタザー・モタッハリー」の記事における「ゴムでの時代と恩師」の解説

ゴム神学校では、新し時代適合した学問議論される雰囲気があった。設立者ハーエリーは、1891年1892年の反タバコ利権闘争始まり1905年1911年立憲革命第一次世界大戦、さらにこの時代一貫してみられる英国ロシア中心とする帝国主義諸国侵略確執経験していたため、実践的な対応策考案していた。 ゴム移ってからの1、2年間は、まともに居住する部屋得られないほどであったため、病気罹った回復後1941年には、弟をゴム誘っている。1937年から1952年に至るゴム滞在は、実質的に哲学者・思想家モルタザー・モタッハリー形成され時期である。この時期に、テヘラン移住ごの活動中身がほぼ全て具体的な形現れている。これが可能いなったのは、何より生涯共有するホメイニーボルージェルディーモハンマド・ホセイン・タバータバーイーといった恩師学院での友人たちに出会ったことである。 モタッハリーの第一の師はホメイニーであったホメイニーの最も得意とした学問倫理学および神智学であった。彼は若い頃から哲学神智学強い関心示していた。特にモッラー・サドラーへの傾倒顕著であり、とりわけ完璧な人間(ensan al-kamel)」の概念に基づく「ウィラーヤ(イマーム代理職)」理解は重要である。「完全な人間」とは、人間は神の法(シャリーア)の導きに従って自己鍛錬することにより、完全になれるという信念基づいている。すなわち、人間完璧な状態に至るまで四つ階梯を経る。つまり①人間を離れ神に至り、②神にあってとともにいる(ファナー)、③②経験した修行者は、以前自分とは全く異なった状態で再び人間社会に戻る④このように人間は紙の性格獲得し、しかもその性質用いて他の人々援助する、という考えである。重要な点は、モタッハリーの師ホメイニー通常考えられているような政治的過激主義者では決してなく、むしろ彼の基盤哲学神智学裏付けられウィラーヤ思想であった彼の思想的傾向1963年事件経て、強い政治性帯びようになったホメイニー弟子モタッハリーの講演著作また、同様の特徴みられる。 モタッハリーが法学分野で強い影響受けたのは、設立者ハーエリーの没後ゴム定住することになったボルージェルディーである。この人物は、イラン西部の州に位置するロレスターんなるボルージェルドに生まれた法学者であった多く弟子教育従事し1961年他界するまで、特に法学分野令明高かった同時に高い倫理性を持つ人物として知られていた。彼は、19世紀半ば制度化された単一のマルジャア・アッ=タクリード(習従の源泉)と言われるシーア派学界で広範な影響力持っていた。その一方で政治に対して終始慎重な態度保持し続けたこのような態度宗教学者伝統的に保ち続けたものであって先述のハーエリーにも当てはまる。 タバータバーイーも、モタッハリーの人生の師の一人であった。モタッハリーの哲学思想支え二本の太い、すなわち神智学西洋近代哲学に関する深い造詣この人物とか変わっている唯物主義、特に西洋無神論対す論駁は、モタッハリーの生涯における最大関心ごとであったこれまで述べた三人恩師の他に、シーラーズィーという人物もモタッハリーの生涯大きな影響与えたこの人物は『雄弁の道』という書物奥義伝授したことで知られる。『雄弁の道』とは、12イマームシーア派で認められ12名のイマームの中で初代位置占めアリー説教演説手紙などが収められ書物であり、シーア派信者にとってはクルアーンに並ぶ重要性を持つ。モタッハリーは1941年夏季休暇中にエスファハーンの町を訪れた時、この師とであい、師から『雄弁の道』を学んだ。モタッハリーは次のように述べている。「(シーラーズィーは)私が長い道のりで旅の荷物縛り一緒にいて恵みを受けるにふさわしい人物の一人でした。彼は自ら『雄弁の道』の体現者でしたし、『雄弁の道』は、彼の生命の奥深に入り込んでおりましたこの人物の魂は「信者の長」の魂と結びつきぶつかり結合していると感じました。私は常に思うのですが、まさしく自身の魂の最大源泉をこの偉大な人物の言葉みなしております。(高貴なアッラー恵み彼の上にあらんことを、さらに、清浄な聖者と、無謬なるイマームたちと共にあらんことを)」 モタッハリーはゴム移住してから、深刻な悩み中に陥った。しかし、このような低迷した状態は神智学との出会いにとって脱出した。しかし次第ゴム学院内部で、政治・学上の指導巡って対立・抗争見られるようになった。この対立学生のみならず授業めぐって教師と学生対立としても現れた。やがてモタッハリーは躊躇しながらもゴムの町を去り首都テヘランに向かう決意をした。

※この「ゴムでの時代と恩師」の解説は、「モルタザー・モタッハリー」の解説の一部です。
「ゴムでの時代と恩師」を含む「モルタザー・モタッハリー」の記事については、「モルタザー・モタッハリー」の概要を参照ください。

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