ゴムでの時代と恩師
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「モルタザー・モタッハリー」の記事における「ゴムでの時代と恩師」の解説
ゴムの神学校では、新しい時代に適合した学問が議論される雰囲気があった。設立者ハーエリーは、1891年〜1892年の反タバコ利権闘争に始まり、1905年〜1911年の立憲革命、第一次世界大戦、さらにこの時代に一貫してみられる英国ロシアを中心とする帝国主義諸国の侵略や確執を経験していたため、実践的な対応策を考案していた。 ゴムに移ってからの1、2年間は、まともに居住する部屋も得られないほどであったため、病気に罹った。回復後の1941年には、弟をゴムに誘っている。1937年から1952年に至るゴム滞在は、実質的に哲学者・思想家モルタザー・モタッハリーが形成された時期である。この時期に、テヘラン移住ごの活動の中身がほぼ全て具体的な形で現れている。これが可能いなったのは、何より生涯を共有するホメイニー、ボルージェルディー、モハンマド・ホセイン・タバータバーイーといった恩師や学院での友人たちに出会ったことである。 モタッハリーの第一の師はホメイニーであった。ホメイニーの最も得意とした学問は倫理学および神智学であった。彼は若い頃から哲学や神智学に強い関心を示していた。特にモッラー・サドラーへの傾倒は顕著であり、とりわけ「完璧な人間(ensan al-kamel)」の概念に基づく「ウィラーヤ(イマームの代理職)」理解は重要である。「完全な人間」とは、人間は神の法(シャリーア)の導きに従って自己を鍛錬することにより、完全になれるという信念に基づいている。すなわち、人間は完璧な状態に至るまで四つの階梯を経る。つまり①人間を離れ神に至り、②神にあって神とともにいる(ファナー)、③②を経験した修行者は、以前の自分とは全く異なった状態で再び人間の社会に戻る④このように、人間は紙の性格を獲得し、しかもその性質を用いて他の人々を援助する、という考えである。重要な点は、モタッハリーの師ホメイニーは通常考えられているような政治的過激主義者では決してなく、むしろ彼の基盤は哲学や神智学に裏付けられたウィラーヤの思想であった。彼の思想的傾向は1963年の事件を経て、強い政治性を帯びるようになった。ホメイニーも弟子モタッハリーの講演や著作もまた、同様の特徴がみられる。 モタッハリーが法学の分野で強い影響を受けたのは、設立者ハーエリーの没後ゴムに定住することになったボルージェルディーである。この人物は、イラン西部の州に位置するロレスターんなるボルージェルドに生まれた法学者であった。多くの弟子の教育に従事し、1961年に他界するまで、特に法学の分野で令明が高かった。同時に高い倫理性を持つ人物としても知られていた。彼は、19世紀半ばに制度化された単一のマルジャア・アッ=タクリード(習従の源泉)と言われるシーア派学界で広範な影響力を持っていた。その一方で政治に対しては終始慎重な態度を保持し続けた。このような態度は宗教学者が伝統的に保ち続けたものであって、先述のハーエリーにも当てはまる。 タバータバーイーも、モタッハリーの人生の師の一人であった。モタッハリーの哲学思想を支える二本の太い柱、すなわち神智学と西洋近代哲学に関する深い造詣がこの人物とか変わっている。唯物主義、特に西洋の無神論に対する論駁は、モタッハリーの生涯における最大の関心ごとであった。 これまでに述べた三人の恩師の他に、シーラーズィーという人物もモタッハリーの生涯に大きな影響を与えた。この人物は『雄弁の道』という書物の奥義を伝授したことで知られる。『雄弁の道』とは、12イマームシーア派で認められた12名のイマームの中で初代の位置を占めるアリーの説教、演説、手紙などが収められた書物であり、シーア派信者にとってはクルアーンに並ぶ重要性を持つ。モタッハリーは1941年の夏季休暇中にエスファハーンの町を訪れた時、この師とであい、師から『雄弁の道』を学んだ。モタッハリーは次のように述べている。「(シーラーズィーは)私が長い道のりで旅の荷物を縛り、一緒にいて恵みを受けるにふさわしい人物の一人でした。彼は自ら『雄弁の道』の体現者でしたし、『雄弁の道』は、彼の生命の奥深に入り込んでおりました。この人物の魂は「信者の長」の魂と結びつき、ぶつかり、結合していると感じました。私は常に思うのですが、まさしく私自身の魂の最大の源泉をこの偉大な人物の言葉とみなしております。(高貴なるアッラーの恵みが彼の上にあらんことを、さらに、清浄なる聖者と、無謬なるイマームたちと共にあらんことを)」 モタッハリーはゴムに移住してから、深刻な悩みの中に陥った。しかし、このような低迷した状態は神智学との出会いにとって脱出した。しかし次第にゴムの学院内部で、政治・学問上の指導権を巡って対立・抗争が見られるようになった。この対立は学生間のみならず、授業をめぐって教師と学生の対立としても現れた。やがてモタッハリーは躊躇しながらもゴムの町を去り、首都テヘランに向かう決意をした。
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