クロルの時代とは? わかりやすく解説

クロルの時代(1844年–1894年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 00:10 UTC 版)

クロルオーパー」の記事における「クロルの時代(1844年1894年)」の解説

設立のきっかけは、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世1841年ブレスラウ訪問時に「Kroll´scher Wintergarten(「クロル室内庭園」)」を知ったことに遡る。こうして王宮所在地たるベルリン上品な社交の場を設立することとなったのである。そこで企業家ヨーゼフ・クロル(Joseph Kroll)にベルリン地所無償譲渡されたが、場所は練兵場外れで埃が舞い降れば一面ぬかるむような、昔の市境を少し超えたところであった。しかし自らも設立資本を3ターラー用立てる必要があり、クロルはこれを借入によって賄わざるをえなかった。しかも事業失敗すれば地所返還し新たに建てた建物撤去する義務を負わされた。 建築王室建築家ルートヴィヒ・ペルジウス(ドイツ語版)も携わっていたのも、プロジェクト国王関心事であったことを明白に示している。他にも著名な建築家カール・フェルディナント・ラングハウス(ドイツ語版)、エドゥアルト・クノーブラウフ(ドイツ語版)がいた。建築には10か月要し1844年2月15日豪華な舞踏会をもって開業した施設は、城のようなスタイルで、中心となる建物2階建て、両側には低層翼部続きこの他にもいくつかの建物付属していた。5,000人を収容し屋内庭園は2か所、中規模サロン14か所、大規模なホールが3か所、その内1つは特に贅を凝らした「Königssaal(王の間)」で、音楽奏でる奏者60名にのぼった技術の面で特筆すべきは、当時導入されたばかりガス灯400灯が設置された。 開業初年業績は非常に好調であったベルリン道々には大きな宣伝ポスターが貼り出され企画には手をかけた装い仮面舞踏会イタリア中国夕べくじ引き大会クリスマス展示があった。ウィーンワルツ王ヨハン・シュトラウス2世一時客演したが、直ぐにウィーン戻った彼の音楽が「ベルリン人々気質には、あまり受け入れられない」ことを悟ったためであった努力尽くしたものの、経営状態次第悪化していった。ヨーゼフ・クロルは肝臓病のため死去したが、生前国王邂逅し、ベルリン事業行ったことを後悔していた。 事業引き継いだのはクロル年長の娘、アウグステ(Auguste)であった事業拡大乗り出し猛獣ショー大規模な商業見本市開催した劇場として免許取得し、「王の間」に舞台設置して当初は、喜劇郷土劇といった庶民的な演目上演したが、オペラ作品いくつかレパートリー加わった例えばフリードリヒ・フォン・フロートウの『マルタ』やロッシーニの『セビリアの理髪師』で、資金限られる中、冒険的な企画であった。アウグステ・クロルが特に目をかけたのが、幾度も大好評博しながらも常に生活苦あえいでいた作曲家アルベルト・ロルツィングであったオペラ作品刀鍛冶ドイツ語版)』『ウンディーネドイツ語版)』『ロシア皇帝船大工ドイツ語版)』が上演されたが、厳し経営業況の中では歩合報酬支払余裕がなかった。1851年2月豪華施設は炎に包まれ全焼した照明の火が舞台装置引火したのが原因であった被災免れたのは庭園夏季劇場のみであった火災保険から8ターラー支払われ、わずか1年再建することができた。建築家はエドゥアルト・ティッツ(ドイツ語版)で、以前よりも立派なものとなった 1853年、アウグステ・クロルはヤーコプ・エンゲル(Jakob Engel)と結婚したハンガリー出身音楽家で、楽長として雇われていた人物であった。そして音楽演目は一層、大掛かりなものとなっていった。小規模なオペラの他に、ロッシーニの『オテロ』やリヒャルト・ヴァーグナー作品である。しかし長年高コストと低収益という状況変わりはなかった。1855年4月1日負債に耐え兼ね、ついに倒産憂き目にあったその後数年債権者事業継続したものの、状況好転することはなかった。強制競売かけられると、ヤーコプ・エンゲルは今なお負債抱え企業買い戻し行ったのである。しかし10万9,000ターラーもの資金をどこから調達したかは明らかではない。エンゲル多大な費用要するオペラ作品断念することとなった。しかしすぐにまた危機訪れた1869年創業25周年に当たる年、プロイセン営業の自由導入されのであるこれまで必要だった営業許可不要となり、数多く私企業設立され競争はますます激しくなっていったエンゲル売却試みたが、高額な抵当権付いていたため、実を結ばなかった。大きな投資不可であった数十年の時を過ぎ、地所全体法的状況不透明であったためである。1864年以降練兵場は「Königsplatz(国王広場)」となり、堂々たる都市広場へと装い一変した1870年代には、繰り返し議会新国会議事堂立地について議論重ねられ建設のため同施設撤去するという案も出された。1876年新国会議事堂広場向かい側建設する旨、議決された。ヤーコプ・エンゲルもまた計画いくつか実現することができた。例えば、それまでガス灯代わる電灯導入であり、これはベルリンで初となるものであった1888年エンゲル死去息子ベルリン観客関心薄れていく状況抗しきれず、1894年やむなく経営から手を引くこととなった

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