クロルの時代(1844年–1894年)
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「クロルオーパー」の記事における「クロルの時代(1844年–1894年)」の解説
設立のきっかけは、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が1841年のブレスラウ訪問時に「Kroll´scher Wintergarten(「クロル室内庭園」)」を知ったことに遡る。こうして王宮所在地たるベルリンに上品な社交の場を設立することとなったのである。そこで企業家ヨーゼフ・クロル(Joseph Kroll)にベルリンの地所が無償で譲渡されたが、場所は練兵場の外れで埃が舞い、雨が降れば一面がぬかるむような、昔の市境を少し超えたところであった。しかし自らも設立資本を3万ターラー用立てる必要があり、クロルはこれを借入によって賄わざるをえなかった。しかも事業が失敗すれば、地所を返還し、新たに建てた建物も撤去する義務を負わされた。 建築に王室建築家ルートヴィヒ・ペルジウス(ドイツ語版)も携わっていたのも、プロジェクトが国王の関心事であったことを明白に示している。他にも著名な建築家カール・フェルディナント・ラングハウス(ドイツ語版)、エドゥアルト・クノーブラウフ(ドイツ語版)がいた。建築には10か月を要し、1844年2月15日に豪華な舞踏会をもって開業した施設は、城のようなスタイルで、中心となる建物は2階建て、両側には低層の翼部が続き、この他にもいくつかの建物が付属していた。5,000人を収容し、屋内庭園は2か所、中規模のサロンは14か所、大規模なホールが3か所、その内1つは特に贅を凝らした「Königssaal(王の間)」で、音楽を奏でる奏者は60名にのぼった。技術の面で特筆すべきは、当時、導入されたばかりのガス灯で400灯が設置された。 開業初年の業績は非常に好調であった。ベルリンの道々には大きな宣伝ポスターが貼り出され、企画には手をかけた装いの仮面舞踏会、イタリアや中国の夕べ、くじ引き大会、クリスマス展示があった。ウィーンのワルツ王、ヨハン・シュトラウス2世も一時客演したが、直ぐにウィーンに戻った。彼の音楽が「ベルリンの人々の気質には、あまり受け入れられない」ことを悟ったためであった。努力を尽くしたものの、経営状態は次第に悪化していった。ヨーゼフ・クロルは肝臓病のため死去したが、生前、国王に邂逅し、ベルリンで事業を行ったことを後悔していた。 事業を引き継いだのはクロルの年長の娘、アウグステ(Auguste)であった。事業拡大に乗り出し、猛獣ショーや大規模な商業見本市を開催した。劇場としての免許を取得し、「王の間」に舞台を設置して、当初は、喜劇や郷土劇といった庶民的な演目を上演したが、オペラ作品もいくつかレパートリーに加わった。例えばフリードリヒ・フォン・フロートウの『マルタ』やロッシーニの『セビリアの理髪師』で、資金が限られる中、冒険的な企画であった。アウグステ・クロルが特に目をかけたのが、幾度も大好評を博しながらも常に生活苦にあえいでいた作曲家、アルベルト・ロルツィングであった。オペラ作品『刀鍛冶(ドイツ語版)』『ウンディーネ(ドイツ語版)』『ロシア皇帝と船大工(ドイツ語版)』が上演されたが、厳しい経営業況の中では歩合や報酬を支払う余裕がなかった。1851年2月、豪華施設は炎に包まれ全焼した。照明の火が舞台装置に引火したのが原因であった。被災を免れたのは庭園と夏季劇場のみであった。火災保険から8万ターラーが支払われ、わずか1年で再建することができた。建築家はエドゥアルト・ティッツ(ドイツ語版)で、以前よりも立派なものとなった 1853年、アウグステ・クロルはヤーコプ・エンゲル(Jakob Engel)と結婚した。ハンガリー出身の音楽家で、楽長として雇われていた人物であった。そして音楽の演目は一層、大掛かりなものとなっていった。小規模なオペラの他に、ロッシーニの『オテロ』やリヒャルト・ヴァーグナーの作品である。しかし長年の高コストと低収益という状況に変わりはなかった。1855年4月1日、負債に耐え兼ね、ついに倒産の憂き目にあった。その後、数年は債権者が事業を継続したものの、状況が好転することはなかった。強制競売にかけられると、ヤーコプ・エンゲルは今なお負債を抱える企業を買い戻しを行ったのである。しかし10万9,000ターラーもの資金をどこから調達したかは明らかではない。エンゲルは多大な費用を要するオペラ作品を断念することとなった。しかしすぐにまた危機が訪れた。1869年、創業25周年に当たる年、プロイセンに営業の自由が導入されたのである。これまで必要だった営業許可が不要となり、数多くの私企業が設立され、競争はますます激しくなっていった。エンゲルは売却を試みたが、高額な抵当権が付いていたため、実を結ばなかった。大きな投資は不可能であった。数十年の時を過ぎ、地所全体の法的状況が不透明であったためである。1864年以降、練兵場は「Königsplatz(国王広場)」となり、堂々たる都市広場へと装いを一変した。1870年代には、繰り返し議会で新国会議事堂の立地について議論が重ねられ、建設のため同施設を撤去するという案も出された。1876年に新国会議事堂は広場の向かい側に建設する旨、議決された。ヤーコプ・エンゲルもまた計画をいくつか実現することができた。例えば、それまでのガス灯に代わる電灯の導入であり、これはベルリンで初となるものであった。1888年、エンゲルが死去。息子はベルリンの観客の関心が薄れていく状況に抗しきれず、1894年、やむなく経営から手を引くこととなった。
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