ガッテラーの苦渋
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1737年に創設されたドイツのゲッティンゲン大学は、同国歴史学を形成する中心的役割を担った。ヨハン・クリストフ・ガッテラー(1727年 - 1799年)(en)は1759年以後、同大学で歴史学教授を務め、歴史学を専門的学問に育て上げる功績を残した。ゼミナールで史料の収集や編纂、人材の育成を行うとともに、歴史の理論考察や批判活動の場となるドイツ初の歴史学専門雑誌や紋章学・古文書学・系譜学・地理学・年代学の教科書を出版した。このような多岐にわたる学問体系を対象とした彼らは「ゲッティンゲン学派」と呼ばれるようになる。 ゲッティンゲン学派の開祖となったガッテラーは、生涯に4冊の世界史著作を残している。1761年の『普遍史教科書』と1771年の『普遍史序説』は、その題名が示す通り普遍史概念を基礎に置いている。しかし、その内容は伝統的普遍史のままでは無かった。『普遍史序説』にてガッテラーは、人類史を4期に区分している。第1期は天地創造に始まり、第2期はバベルの塔崩壊による諸民族の発生を起点としており、ここまでは聖書記述にほぼ則っている。しかし続く部分について彼は、「世界帝国」を放棄して「諸民族体系」という概念を導入している。アッシリア、ペルシア、マケドニアまでは人類の世界はひとつの国家による単一体系にあったが、ローマの時代に世界はヨーロッパとアジアという二つの体系が両立する状態になったという論を展開した。そして第3期は「中世」という区分名を用いて、5世紀の民族大移動から1492年のアメリカ大陸発見までの期間とした。ここでは、世界はヨーロッパ・アジアの二体系から、それぞれに多くの民族が発生して並存する状態を指した。第4期は、フン族が中国史に言う匈奴だという仮説を皮切りに中国史を論説し、その他にも日本史や朝鮮史なども採録している。この最後の期は15世紀から18世紀を対象とした箇所であるが、これら遠方の民族史は「発見された」時がこの時代区分に当たるために含めているだけで、「諸民族体系」に含めるか否かの態度を留保したと考えられる。このように「四世界帝国論」を排除しつつも、この時点でガッテラーは普遍史的な枠内で世界を記述していた。 しかし、1785年の著作『世界史』から、ガッテラーは大きな転換を図った。題から「普遍史」という単語を除いた通り、彼の世界史記述は普遍史からの脱却を果たした。歴史の初期について、『普遍史序説』と同様にアダムからモーセまでを取り上げているが、これを「セトを租とする大種族の一派、ノア家すなわちヘブライ人の伝説」として扱った。すなわち、大洪水は事実としても、それはあくまでインダス川上流で起こった局地的な事件でしかなく、他の地域には多くの人間や動物が生きていたと考えた。これに伴い、聖書中の事件が起こった年度も見直しを施した。そして時代区分も変更した。『普遍史序説』の4段階から、文化史の観点を基礎に6段階に改訂したが、この考察の中にはモーセやソクラテスの他に孔子やゾロアスターなども加え、聖書が対象とした世界と中国など記述されない世界とを同等に扱っている。 そして4冊目の『世界史試論』では、よもや普遍史的枠組みは創世紀元の使用とアダムからニムロドまでを記した部分にしか見られない。しかもそれは、全861ページの大書の中でたった2ページが宛がわれたに止まり、それも「伝説的歴史」という扱いに過ぎない。同書の記載は、中国や日本、アラビアやインドなどアジア全域の歴史を含んだ、啓蒙主義的または社会史的評論が行われている。ガッテラー自身は敬虔なキリスト教徒であり、4冊目の著作でも少々残滓が見られるが、よもや普遍史を放棄せざるを得ないところまで来てしまっていたことを表す。彼は、キリスト教の内側から普遍史を自己否定する役目を担った人物となった。
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