エルトン・ジョンとの活動
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「バーニー・トーピン」の記事における「エルトン・ジョンとの活動」の解説
1967年、トーピンは、リバティレコードのA&Rを務めていたレイ・ウィリアムスが『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌に出したタレント公募に応募する。エルトン・ジョンもまた、同じ広告に応募していた。トーピンもジョンもリバティレコードのオーディションには合格しなかったが、オーディションの際にジョンは、後ろの机に座っていた男性に、詩を書くのが苦手だと打ち明けた。すると男性は提出された歌詞の山から封筒を取ってジョンに手渡した。帰りのロンドン地下鉄で、彼は封筒を開けたが、そこにはトーピンの詞が納められていた。 2人はこれまで30枚以上のアルバムを共に制作している。1977年から79年にかけては互いに共作を休止する期間があったが、この間トーピンはアリス・クーパーなどほかのミュージシャンと、ジョンはゲイリー・オズボーンやトム・ロビンソンなどほかの作詞家と仕事をしている。ただし、この期間にリリースされたアルバム『シングル・マン』からも、シングルA面「僕の小さなわがまま」や「ソング・フォー・ガイ」B面の「ラブシック」、「パート・タイム・ラヴ」B面の「アイ・クライ・アット・ナイト」は2人の共作となっている。 ジョンとトーピンは、1980年に共作を再開し、『21 AT 33』、『ザ・フォックス』、『ジャンプ・アップ』では3〜4曲の作詞をトーピンが担当している。1983年の『トゥー・ロウ・フォー・ゼロ』で、2人は完全な関係を取り戻し、以降のジョンのソロ作品にはトーピンの歌詞が採用されている。ただし、ジョンはミュージカルや映画プロジェクトではほかの作詞家と仕事をすることもあり、1994年の『ライオン・キング』や2000年の『アイーダ』ではティム・ライスが、2005年の『ビリー・エリオット』では原作映画の脚本も手がけたリー・ホールがそれぞれ歌詞を担当している。ホールは、トーピンが登場するエルトン・ジョンの伝記映画『ロケットマン』でも脚本を書いている。 トーピンは、最初のヒットとなった「僕の歌は君の歌」をはじめとし、「ロケット・マン」、「リーヴォンの生涯」、「クロコダイル・ロック」、「ホンキー・キャット」、「可愛いダンサー」、「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」、「土曜の夜は僕の生きがい」、「ベニーとジェッツ」、「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」、「モナ・リザ・アンド・マッド・ハッター」、「僕の瞳に小さな太陽」、「あばずれさんのお帰り」、「ダニエル」といった1970年代のヒット曲の作詞を手がけている。また、1980年代には「アイム・スティル・スタンディング」、「ブルースはお好き?」、「サッド・ソングス」、「悲しみのニキタ」など、1990年代には「ザ・ワン」、「シンプル・ライフ」、「ラスト・ソング」、「恋人たちの酒場」、「ビリーヴ」などを担当している。1997年9月には、ダイアナ妃の急逝を受けて「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」を書き直し、「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」として捧げた。 国家としての立場を表明することが非常に重要だと思った。イギリス全体で歌えるような曲にしたかった。最初に2行(「Goodbye England's Rose〜」)を書いたら、あとは自然に書けた。 “ ” バーニー・トーピン(「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」について) 1991年のドキュメンタリー映画『トゥー・ルームス』では、トーピンが詞を書いた後、第三者は全く介せずジョンが節をつけるという曲の制作方法が紹介されている。この作曲方法は長年変わっていないが、今日では2人はさらに密接に関わるようになり、スタジオで作曲中、さらにはレコーディングセッション中のジョンにトーピンが加わることもある。 トーピンとジョンは、2006年3月にブロードウェイミュージカル『Lestat: The Musical』をオープンさせた。また、2006年のアルバム『キャプテン・アンド・ザ・キッド』(『キャプテン・ファンタスティック』の続編)に向けては、10曲(およびアルバム未収録の「アクロス・ザ・リヴァー・テムズ」)の歌詞を書き下ろした。このアルバムのカバーには、出会いから40周年を迎えた2人が登場している。 2007年3月25日、トーピンはマディソン・スクエア・ガーデンで行われたジョンの60歳の誕生日祝賀会にサプライズで出演し、40年間のパートナーについて手短に語った。この様子は『Elton 60 – Live at Madison Square Garden』に記録されており、ジョンは観客に、トーピンがいなければ皆が知るような「エルトン・ジョン」は誕生しなかっただろうと話している。2010年10月には、彼らが長年敬愛していたレオン・ラッセルと『ザ・ユニオン』をリリースし、数曲を共作している。2011年のミラマックス映画『ノミオとジュリエット』では5曲を提供しており、なかでも「Hello Hello」は、ゴールデングローブ賞にノミネートした。 2018年、トーピンとジョンはアニメ映画『名探偵シャーロック・ノームズ』でオリジナル曲を共作した。2019年には、映画『ロケットマン』が制作され、エンディングクレジットで流される「(アイム・ゴナ)ラヴ・ミー・アゲイン」を書き下ろしている。映画では、1970年代から80年代にかけての、ジェイミー・ベル演じるトーピンとジョンの友情が描かれている。同曲では、アカデミー歌曲賞も受賞している。
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エルトン・ジョンとの活動
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「ガス・ダッジョン」の記事における「エルトン・ジョンとの活動」の解説
ダッジョンはデッカ・レコードを離れ、自らの会社を興した。1970年に独立したダッジョンは、エルトン・ジョンと仕事をし始めた。彼らが最初に一緒に取り組んだものは、シングル「僕の歌は君の歌」であり、シンプルなピアノ曲にオーケストラ・アレンジを加えた。シングルは成功し、全米シングルチャートで8位まで上昇する、エルトン・ジョンにとっての最初の大ヒット曲となった。その後はエルトン・ジョンの数々のアルバムのプロデュースを務めて成功を収めたが、ダッジョンは批判的なコメントも残している。1974年のアルバム『カリブ』について「サウンドは最悪、歌はどこにもないし、ジャケットも間違っていて、歌詞もよくないし、歌唱もまともではない。演奏も今一つであり、何よりもプロデュースが最低である。」と批判している。 ダッジョンとエルトン・ジョン、作詞家のバーニー・トーピン、スティーヴ・ブラウンで1973年にレコード・レーベル、ロケット・レコードを設立した。エルトン・ジョンとの共同制作は1976年のアルバム『蒼い肖像』で一旦終わりとなったが、1985年のアルバム『アイス・オン・ファイアー』で久しぶりに再会してプロデュースを担当している。1986年の終りに行われたエルトン・ジョンのオーストラリア・ツアーでは、メルボルン交響楽団の80名以上のメンバーとのミキシング作業を担当した。ツアーの最終日の録音は、アルバム『エルトン・スーパー・ライヴ 〜栄光のモニュメント〜』(1987年)として発表されている。1995年にはダッジョンはエルトン・ジョンの多くのカタログをリマスタリングしている。
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