エルトン・ジョンとの活動とは? わかりやすく解説

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エルトン・ジョンとの活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 05:38 UTC 版)

バーニー・トーピン」の記事における「エルトン・ジョンとの活動」の解説

1967年、トーピンは、リバティレコードA&R務めていたレイ・ウィリアムスが『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』誌に出したタレント公募応募するエルトン・ジョンまた、同じ広告応募していた。トーピンもジョンリバティレコードオーディションには合格しなかったが、オーディションの際にジョンは、後ろ座っていた男性に、詩を書くのが苦手だと打ち明けた。すると男性提出され歌詞山から封筒取ってジョン手渡した帰りロンドン地下鉄で、彼は封筒開けたが、そこにはトーピンの詞が納められていた。 2人これまで30上のアルバムを共に制作している。1977年から79年にかけては互いに共作休止する期間があったが、この間トーピンはアリス・クーパーなどほかのミュージシャンと、ジョンゲイリー・オズボーントム・ロビンソンなどほかの作詞家と仕事をしている。ただし、この期間にリリースされアルバムシングル・マン』からも、シングルA面「僕の小さなわがまま」や「ソング・フォー・ガイ」B面の「ラブシック」、「パート・タイム・ラヴ」B面の「アイ・クライ・アット・ナイト」は2人共作となっている。 ジョンとトーピンは、1980年共作再開し、『21 AT 33』、『ザ・フォックス』、『ジャンプ・アップ』では3〜4曲の作詞をトーピンが担当している。1983年の『トゥー・ロウ・フォー・ゼロ』で、2人は完全な関係を取り戻し以降ジョンソロ作品にはトーピンの歌詞採用されている。ただし、ジョンミュージカル映画プロジェクトではほかの作詞家と仕事をすることもあり、1994年『ライオン・キング』2000年『アイーダ』ではティム・ライスが、2005年の『ビリー・エリオット』では原作映画脚本も手がけたリー・ホールがそれぞれ歌詞担当している。ホールは、トーピンが登場するエルトン・ジョン伝記映画ロケットマン』でも脚本書いている。 トーピンは、最初ヒットとなった僕の歌は君の歌」をはじめとし、「ロケット・マン」、「リーヴォンの生涯」、「クロコダイル・ロック」、「ホンキー・キャット」、「可愛ダンサー」、「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」、「土曜の夜は僕の生きがい」、「ベニーとジェッツ」、「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」、「モナ・リザ・アンド・マッド・ハッター」、「僕の瞳に小さな太陽」、「あばずれさんのお帰り」、「ダニエル」といった1970年代ヒット曲作詞を手がけている。また、1980年代には「アイム・スティル・スタンディング」、「ブルースお好き?」、「サッド・ソングス」、「悲しみニキタ」など、1990年代には「ザ・ワン」、「シンプル・ライフ」、「ラスト・ソング」、「恋人たち酒場」、「ビリーヴ」などを担当している。1997年9月には、ダイアナ妃急逝受けて「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」を書き直し、「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」として捧げた国家としての立場表明することが非常に重要だ思ったイギリス全体歌えるような曲にしたかった最初に2行(「Goodbye England's Rose〜」)を書いたら、あとは自然に書けた。 “ ” バーニー・トーピン(「キャンドル・イン・ザ・ウィンド1997」について) 1991年ドキュメンタリー映画『トゥー・ルームス』では、トーピンが詞を書いた後、第三者は全く介せずジョンが節をつけるという曲の制作方法紹介されている。この作曲方法長年変わっていないが、今日では2人はさらに密接に関わるようになり、スタジオで作曲中、さらにはレコーディングセッション中のジョンにトーピンが加わることもある。 トーピンとジョンは、2006年3月ブロードウェイミュージカル『Lestat: The Musical』をオープンさせた。また、2006年アルバムキャプテン・アンド・ザ・キッド』(『キャプテン・ファンタスティック』の続編)に向けては、10曲(およびアルバム未収録の「アクロス・ザ・リヴァー・テムズ」)の歌詞書き下ろした。このアルバムカバーには、出会いから40周年迎えた2人登場している。 2007年3月25日、トーピンはマディソン・スクエア・ガーデン行われたジョン60歳誕生日祝賀会サプライズ出演し40年間のパートナーについて手短に語ったこの様子は『Elton 60Live at Madison Square Garden』に記録されており、ジョン観客に、トーピンがいなければ皆が知るような「エルトン・ジョン」は誕生しなかっただろうと話している。2010年10月には、彼らが長年敬愛していたレオン・ラッセルと『ザ・ユニオン』をリリースし、数曲を共作している。2011年ミラマックス映画ノミオとジュリエット』では5曲を提供しており、なかでもHello Hello」は、ゴールデングローブ賞ノミネートした。 2018年、トーピンとジョンアニメ映画名探偵シャーロック・ノームズ』でオリジナル曲共作した。2019年には、映画ロケットマン』が制作されエンディングクレジット流される(アイム・ゴナ)ラヴ・ミー・アゲイン」を書き下ろしている。映画では、1970年代から80年代にかけての、ジェイミー・ベル演じるトーピンとジョン友情描かれている。同曲では、アカデミー歌曲賞受賞している。

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エルトン・ジョンとの活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/18 16:59 UTC 版)

ガス・ダッジョン」の記事における「エルトン・ジョンとの活動」の解説

ダッジョンはデッカ・レコード離れ、自らの会社興した1970年独立したダッジョンは、エルトン・ジョン仕事をし始めた。彼らが最初に一緒に取り組んだものは、シングル僕の歌は君の歌」であり、シンプルなピアノ曲にオーケストラ・アレンジを加えたシングル成功し全米シングルチャートで8位まで上昇するエルトン・ジョンにとっての最初大ヒットとなったその後エルトン・ジョン数々アルバムプロデュース務めて成功収めたが、ダッジョンは批判的なコメント残している。1974年アルバムカリブ』について「サウンド最悪、歌はどこにもないし、ジャケット間違っていて、歌詞よくないし、歌唱もまともではない。演奏今一つであり、何よりもプロデュースが最低である。」と批判している。 ダッジョンとエルトン・ジョン作詞家バーニー・トーピン、スティーヴ・ブラウンで1973年レコード・レーベルロケット・レコード設立したエルトン・ジョンとの共同制作1976年アルバム蒼い肖像』で一旦終わりとなったが、1985年アルバムアイス・オン・ファイアー』で久しぶり再会してプロデュース担当している。1986年終り行われたエルトン・ジョンのオーストラリア・ツアーでは、メルボルン交響楽団80名以上のメンバーとのミキシング作業担当したツアー最終日録音は、アルバムエルトン・スーパー・ライヴ 〜栄光のモニュメント〜』(1987年)として発表されている。1995年にはダッジョンはエルトン・ジョン多くカタログリマスタリングしている。

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