アンジュー帝国をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:38 UTC 版)
「アリエノール・ダキテーヌ」の記事における「アンジュー帝国をめぐって」の解説
教皇エウゲニウス3世からの離婚証認教書を受け取るや否や、アリエノールは領地に帰還する。独身となった彼女には、各地からの求婚が相次いだが全てを拒否し、わずか2ヶ月後の5月18日に、アンジュー伯・ノルマンディー公アンリと再婚する。ルイ7世とは近親婚を理由に離婚したにも関わらず、アンリはルイよりも近い血縁関係にあった。再婚は自領を守るために男性が必要不可欠だったからだが、アンリにルイ7世には無い資質と性格(数か国語を操る豊かな教養と荒々しい性格)を見出していたからではないかと言われている。アンリの方も領土拡大および対イングランド支援の野心とアリエノールの成熟した魅力に惹かれていたとされる。また再婚直後にフォントヴロー修道院に多額の寄進を行い、この修道院と生涯を通して密接に関わっていった。 多情なアリエノールの再婚とアンリへの軍資金提供にルイ7世は激怒する。さらに、この結婚によりフランス国土の半分以上がアリエノールとアンリの物となったことは、フランス王国にとって大きな脅威となった(アンジュー帝国)。ルイ7世は急ぎ顧問会議を召集、アンリがルイ7世の封臣にも関わらず王の許可無く結婚したことを理由にフランス宮廷への出頭を命令、無視されると7月にアンリの弟ジョフロワ(英語版)を加えてノルマンディーへ出兵した。対するアンリは素早い進軍で奪われた諸城を奪回、反乱を起こした弟も降伏させ、ルイ7世が急病に倒れた幸運にも恵まれ、ルイ7世と休戦して8月末までに危機を切り抜けた。フランス軍攻撃でアンリのイングランド渡海は遅れ、アリエノールは夫と共にアキテーヌを巡回して過ごした。 1153年1月にアンリがイングランドへ渡海するとアンジェで留守を預かり、8月17日に長男ウィリアムを出産した。アンリの方は母マティルダを通してイングランド王位継承権を主張、対するスティーブンは病気だった上息子ユースタスに先立たれたため、ウォーリングフォード協定(ウィンチェスター協定とも)で11月6日にアンリはスティーブンから後継者に定められた。1154年10月25日、スティーブンの崩御によりアンリはイングランド王を継承してヘンリー2世となり、プランタジネット朝が成立した。同年12月7日にアリエノールは夫や幼いウィリアムと共にイングランドへ渡海して翌8日に上陸、19日にアリエノール(英名:エリナーまたはエレノア)は夫と共に戴冠する。こうして、フランス国土の半分以上がイングランド領となり、後の百年戦争の遠因となった。この後13年間に、アリエノールは息子5人と娘3人を産み、夫と共に領土を統治しアンジュー帝国の拡大に務める。ただしウィリアムは1156年に夭折している。 ヘンリー2世・アリエノール夫妻はアンジュー帝国安定のため、頻繁に各地を巡回していた。イギリス海峡を渡ることもよくあり、イングランドと大陸領を行き来しながら絶え間なく移動しつづけていた。ヘンリー2世は無政府時代で疲弊したイングランドの治安回復のため、地方へ巡回に出かけて各地の地方長官の働きぶりを監督したり、彼等をロンドンかウィンチェスターに召集して会計報告をイクスチェッカー(財務省の原型)でチェック、軍役代納金も設けて政治・財政・軍事を整えていった。アリエノールも夫の共同統治者として地方統治を分担し国政に奔走、夫がノルマンディーにいる時はイングランドの留守を預かり、反対に夫がイングランドを視察している場合は大陸領を巡回、宮廷を開いて所領紛争を裁判にかけたり、夫の代理として証書も発行している。しかし、夫が側近の大法官トマス・ベケット(後にカンタベリー大司教)に国政を委ねるとアリエノールは徐々に遠ざけられていった。 前夫ルイ7世と現夫ヘンリー2世との争いはヘンリー2世がイングランド王に即位してからも続き、ヘンリー2世はアンジューの支配を固める一方で外交で優位に立ち、1158年に弟ジョフロワがブルターニュ領有を目論んだ矢先に急死すると、自らブルターニュ継承権をルイ7世へ要求・承認させた。また同年、ベケットをフランスへ派遣して次男ヘンリー(後の若ヘンリー王)とルイ7世と2番目の妃コンスタンス・ド・カスティーユの娘で1歳にもならないマルグリットの婚約を取り付け、持参金としてヴェクサンを受け取ることも約束させた。翌1159年にヘンリー2世はトゥールーズ伯レーモン5世(英語版)にアキテーヌ公の宗主権を認めさせるためトゥールーズへ侵攻したが、こちらはレーモン5世の妻コンスタンス・ド・フランスの兄ルイ7世の頑強な抵抗に遭い撤退した。アリエノールは一連の夫の外交政策に協力、夫妻揃ってアキテーヌ諸侯の臣従を取り付けたり、トゥールーズ侵攻直前には夫と一緒にアキテーヌ巡回に赴いている。 アリエノールはヘンリー2世と野望を共有し、当時息子の無かったルイ7世亡き後にイングランド王国とフランス王国がヘンリーの手に入る未来を夢想していたが、1165年にルイ7世が3番目の妃アデル・ド・シャンパーニュとの間に息子フィリップ(後のフィリップ2世)を儲けたため叶わなかった。また、先立つ1160年にルイ7世は政略結婚を通じてシャンパーニュ伯領を治めるブロワ家に接近、アリエノールとの間の娘マリーとアリックスをそれぞれシャンパーニュ伯アンリ1世、ブロワ伯ティボー5世兄弟と婚約、自身もシャンパーニュ伯兄弟の妹アデルと結婚することでプランタジネット家を牽制することを狙った。ヘンリー2世・アリエノール夫妻も対抗して同年にヘンリーとマルグリットの結婚式を挙げ、ヴェクサンを勝手に領有したりしている。
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