アンジュー=ドゥラッツォ家とヴァロワ=アンジュー家の争い
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「ナポリ・アンジュー朝」の記事における「アンジュー=ドゥラッツォ家とヴァロワ=アンジュー家の争い」の解説
ジョヴァンナ1世はフランス亡命中に、フランス王フィリップ6世の孫でシャルル5世の弟である、ヴァロワ=アンジュー家の祖アンジュー公ルイ1世を養子とした。ルイはルイージ1世と称し、カルロ3世の対立王となった。ここにアンジュー=ドゥラッツォ家とヴァロワ=アンジュー家の抗争が始まった。同時期に起こった教会大分裂でアンジュー=ドゥラッツォ家はローマ教皇ウルバヌス6世を支持したが、ヴァロワ=アンジュー家はアヴィニョン教皇庁に与してクレメンス7世からナポリ王位の承認をもらい、混乱に拍車をかけた。 ルイージ1世はナポリに軍を進めたが成功せず、1384年に死去した。息子のルイ2世が政策を継承し、ナポリに軍を進めたが、フランスの国庫は大いに半減することになった。一方、カルロ3世の死後に後を継いだ息子ラディズラーオ1世はハンガリー王位に野心を示したが成功せず、その後は教皇領に軍を進めるなど頻繁に外征を行い、国力を疲弊させた。
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