アンジュー帝国の絶頂(1160年から1199年)
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「アンジュー帝国」の記事における「アンジュー帝国の絶頂(1160年から1199年)」の解説
ルイ7世は、同時代人にはその敬虔さ、愛と平和で知られていた。パリのエティエンヌはルイ7世についてこう記す: ルイ7世はあまりにも平和的で、公正で、カトリック的で、情け深い。仮にルイ7世の質素な振る舞いや服装を見たら、彼が王であると知っていても王ではなくて宗教者だと思うだろう。ルイ7世は正義を愛し、弱者の保護者だ。 同時代の皮肉に満ちたイングランドの年代記家であるウォルター・マップですらルイ7世に対して好意を持ち、他の君主達には手厳しい評価を下しているのとは対照的に称賛していた。 ルイ7世は戦争と暴力を嫌う平和主義者であったが、トゥールーズへの攻撃はヘンリー2世との平和を完全に破壊して逆に他の場所での戦争を生じさせる絶好の機会になった。ルイ7世自身は難しい立場にあり、彼の臣下は彼よりもはるかに強大で、なお悪いことに彼には後継者の男子が全くいなかった。1160年にルイ7世の2番目の妃であったコンスタンス・ド・カスティーユが子供を残さずして没すると、男子を儲けるべくアデル・ド・シャンパーニュと再婚した。ヘンリー2世の圧力の許で、若ヘンリーは最終的に2歳のマルグリットと結婚し、ノルマンディー・ヴェクサンがその持参金であると宣言された。ルイ7世が後継者の男子を残さずして没したのなら、若ヘンリーが次期フランス王になる立場になった。 1164年にルイ7世はより手に負えない同盟者としてカンタベリー大司教トマス・ベケットを見出した。1158年にルイ7世とベケットは以前にもあったことがあったが、今回は状況は大変異なっていた。ジョン・オブ・ソールズベリ(ソールズベリのヨハンネス)によって「Rex Christianisimus」(キリスト教の王)と呼ばれたルイ7世は、すでにベケットのためにささやかな避難所を作っていた。 イングランド王と大司教の間の争いは激しくなり、ヘンリー2世はベケットの暗殺者に次のようなことばで(暗殺命令を)示唆した。「私はなんとみじめな反逆者を私の家の中で育ててきたのだろう、彼らの君主を、いやしい生まれの聖職者がこのような恥辱に満ちた侮辱で扱うような反逆者を…」と。 ベケットは1170年に殺害され、キリスト教会はヘンリー2世を責めた。トーマス・ベケットの庇護者であったルイ7世は対照的に称賛を得た。ルイ7世の世俗的な力はヘンリー2世よりも弱いにもかかわらず、道徳的立場で有利となった。 若ヘンリーがフランス王位に登り詰めるという可能性は、1165年にアデルが男子フィリップを生んだことで立ち消えとなった。未来のフランス王が誕生したことで平和は終わり、ヘンリー2世はオーヴェルニュを要求して1167年に進軍し、その一方でブールジュも要求して1170年に攻撃した。ルイ7世はノルマンディー・ヴェクサンを奇襲して、ヘンリー2世に対してその軍を北へ移させることで答え、南方に進軍してブールジュを解放した。ここで重要なのは、たとえヘンリー2世が拡張政策を終えたとしてもルイ7世は単純には驚かなかったという点である。 ヘンリー2世は自分の領土に対しては首尾一貫して主権を行使してこなかったが、自分の所有地に関しては息子達に分割させる予定であった。若ヘンリーは1170年にイングランド王として戴冠したが、実際は統治せず、リチャードは1172年にアキテーヌ公となり、ジョフロワは1181年にブルターニュ公になり、ジョンは1185年にアイルランド卿となった。他方、1161年のエレノアはトゥールーズへの遠征中の1170年に、ガスコーニュを持参金とする形でカスティーリャ国王アルフォンソ8世と婚約した。領土を息子達の間で分割し、そのうちの何人かが反抗を起こしたことで、ヘンリー2世の統治はますます困難なものとなった。 若ヘンリーは即位の際にヘンリー2世に対して、自分の相続地として少なくともイングランドかアンジューかノルマンディーを求めたが、ヘンリー2世によっていずれも拒否された。ヘンリー若王はルイ7世の宮廷に加わり、アリエノールとその息子であるリチャード、ジョフロワ2世もこれに加わった。かくしてヘンリー2世の国々は彼に対する闘争に参加するよう圧力を掛けられることになった。ルイ7世に加わった他の王侯には、ウィリアム1世獅子王、フランドル伯フィリップ、ブロワ伯ティボー5世がいた。ヘンリー2世は己の富で多くの傭兵を徴集し、アリエノールとウィリアム1世を捕えてファレーズ条約を強制させたことにより戦争に勝った。ヘンリー2世はラ・マルシュ伯を買収し、ヴェクサンとブールジュの権利を主張したが、この時には要求を裏付けるための侵略はなかった。
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