アンジュー帝国の内戦を誘発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:41 UTC 版)
「ルイ7世 (フランス王)」の記事における「アンジュー帝国の内戦を誘発」の解説
1164年11月、カンタベリー大司教に転任していたトマス・ベケットがヘンリー2世と対立、イングランドからフランスへ亡命すると迎え入れ、ヘンリー2世に反抗する貴族たちも受け入れた。教皇アレクサンデル3世と協力してベケットを匿いながら、ヘンリー2世との和睦を働きかけてたびたび会見の場を用意したが、ベケットとヘンリー2世の和解は実現せず、ベケットは1170年12月19日にヘンリー2世の家来に暗殺された。この間6月にヘンリー2世が挙行した若ヘンリー王の共治王としての戴冠式に際し、マルグリットを戴冠式に出席させなかったことをヘンリー2世に問い質したが、ベケットをイングランドに戻しマルグリットを加えた上で再度若ヘンリー王の戴冠式を行うというヘンリー2世の提案を受けて、ベケットをヘンリー2世に引き渡した(ただし戴冠式はベケット暗殺後の1172年に挙行)。 この頃、ヘンリー2世とアリエノールが不仲になったことを知ると、アンジュー帝国を崩壊させることを画策し始める。1169年、モンミライユ(英語版)でヘンリー2世と会見してベケットとの和解を呼びかけたほか、彼の3人の息子(若ヘンリー王、リチャード、ジェフリー)と臣従を交わし、それぞれにヘンリー2世の領土の分割相続を提案した。了承したヘンリー2世は若ヘンリー王にノルマンディー・アンジュー・メーヌ・トゥーレーヌを、リチャードにはアキテーヌ、ジェフリーにブルターニュを分配し、ルイ7世に臣従礼をとらせることで大陸側の所領を確認させた。リチャードとルイ7世と2番目の妻コンスタンスの娘で9歳のアデル(英名:アレーまたはアリス)の婚約も結ばれ、アデルはイングランド宮廷で養育されたが、ヘンリー2世は結婚を先延ばしにして手元に留め、後にアデルに手を付けたという真偽不明の噂が流れたため、ヘンリー2世とリチャードの対立及びアリエノールがリチャード側に付く原因となった。 1173年3月、好機が訪れた。若ヘンリー王がヘンリー2世に反発してルイ7世の下へ逃れたのである。これはヘンリー2世が末子ジョンへの領土分割(シノン・ルーダン(英語版)・ミルボー(英語版)を授与)を公表したことが原因で、若ヘンリー王が父に反乱を起こすと2人の弟リチャード・ジェフリーや母アリエノールも加勢、アキテーヌ全土やイングランドでヘンリー2世に対する反乱が勃発した。ルイ7世は父子の対立に乗じてアンジュー帝国の内戦を誘発すべく若ヘンリー王を支持、フランス諸侯にも参戦を促し、婿のアンリ1世・ティボー5世兄弟を始めブローニュ伯マチュー・フランドル伯フィリップ兄弟、スコットランド王ウィリアム1世も引き入れて反乱を扇動・拡大、自らも若ヘンリー王と共に出兵してノルマンディー、ヴェルヌイユ、ルーアンなどを攻撃・包囲した。 しかし、ヘンリー2世はブラバント人傭兵を率いて猛烈に反撃して敵を蹴散らし、1174年1月にアリエノールを捕らえ監禁、ウィリアム1世も捕虜にする成果を挙げ、息子たちも9月に降伏させた。対するルイ7世はノルマンディーから退却、アンジュー帝国の内戦はヘンリー2世に早期鎮圧されルイ7世の目論見は失敗に終わった。この後病気がちになりフランスの将来を考え、王国に禍根を残さないため1177年9月21日にヘンリー2世との和睦を結んだ。 1179年8月に息子フィリップを共治王に戴冠する直前にフィリップが急病にかかり、看病する中で自身も9月に病気に襲われ半身不随になり、父子共に命の危険に晒されたが、列聖されたベケットの祠に病気治癒を祈願するため、家臣の反対を押し切りフランス王で初めて敵地イングランドを訪れた。ヘンリー2世に丁重に迎えられたルイ7世はベケットの祠を詣で、帰国した時には病気から回復したフィリップに迎えられ、11月1日に戴冠式を行いフィリップを共治王に据えたが、もはや戴冠式に出られないほど体力は衰え、風邪を引いて脳卒中も併発、話すことも動くことも出来なくなった。危篤状態の中で妻と実家のブロワ家がフィリップと対立してフランスでも内乱の危機が生じたが、フランドル伯と手を組んだフィリップは母もろともブロワ家を宮廷から追放、1180年4月28日にフランドル伯の姪イザベル・ド・エノーと結婚、それを見届けたルイ7世は9月18日にサン=ポン(英語版)の修道院で崩御した。 サン=ポンの修道院に埋葬されたが、遺棺は王政復古期の1817年、サン=ドニ大聖堂に移された。
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