アンジュー伯時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 17:42 UTC 版)
1109年の父の死後、フルク5世は20歳前後でアンジュー伯位を継承した。同年にメーヌ伯エリー1世の娘エランブルジュと結婚、翌1110年にエリー1世が死去するとメーヌ伯領を併合した アンジュー伯は代々ノルマンディー公と対立していたため、当初はフランス王ルイ6世と同盟し、イングランド王兼ノルマンディー公ヘンリー1世と敵対した。彼の甥でノルマンディー公位を要求していたギヨーム・クリトンとも手を組み、次女シビーユとギヨームの婚約を画策、ヘンリー1世に反抗するシュルーズベリー伯爵ロバート・オブ・ベレーム(英語版)らノルマン貴族たちやルイ6世、親戚のアモーリー・ド・モンフォールとの連携でヘンリー1世を苦しめた。 しかし、ヘンリー1世が反撃して1112年にシュルーズベリー伯を逮捕し軍事的に優位に立つと和睦、翌1113年にメーヌにおいてヘンリー1世へ臣従、ウィリアム・アデリン王太子と長女マティルドを婚約(1119年結婚)させた。ルイ6世もヘンリー1世と和睦して一時平和になったが、モンフォールが再度ヘンリー1世に反乱を起こすと、ルイ6世共々ヘンリー1世の敵に戻り、フランドル伯ボードゥアン7世も加えてノルマンディーへ侵攻、1118年にアランソンでヘンリー1世に勝利している。 同年にボードゥアン7世が負傷して離脱するとヘンリー1世と再び和睦、1120年にウィリアム王太子がホワイトシップの遭難により事故死した後、1123年にシビーユとギヨームを結婚させまたもやヘンリー1世に反抗する動きを見せたが、ヘンリー1世の意向を受けたローマ教皇の介入でシビーユとギヨームの結婚は無効にされた。以後はヘンリー1世に味方し、1128年に嫡子でマティルドの弟ジョフロワをヘンリー1世の娘かつウィリアムの姉で後継者に指名されたマティルダ(モード)と婚約させた(ギヨームは同年戦死、一連の反乱は平定された)。1133年に生まれたジョフロワとマティルダの息子が後にイングランド王ヘンリー2世としてプランタジネット朝を創始する。
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