【1988~1993年】
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「GRIFFIN」の記事における「【1988~1993年】」の解説
射延篤史と村本亮太が中心となりGriffin結成。結成当初のメンバーはサポートという形であったが、ギターにダブルボギーズの大西真、ドラムはナイトメアの川嶋オサム。当時よく連んでいたS.O.B.の鈴木義智(TOTTSUAN)の助言もあり、その音楽性はファッションを含めて米国のホラーパンクバンド、“MISFITS”色の強いハードコアパンク。 大阪におけるパンクの聖地とも言えるライブハウス、花園町エッグプラントを中心に精力的にライブ活動を展開。共演が多かったバンドにレイプスやダンスマカブラやS.O.Bが挙げられる。88年広島を代表するハードコアパンクバンド愚鈍、藤井ZIGYAKが代表を務める、加害妄想レコードよりファーストシングル「The Phamtom of the Shocker」をリリース。「今でも覚えてる。藤井さんのウチからレコード出さないか?という言葉!飛び上がって喜んだよ」。エッグプラントのステージでデビロックを垂らしたフロントスリーブは前述のS.O.B.トッツァンが撮影。雑誌フールズメイトのインディーズチャート初登場2位にランクインした(因みに1位はブルーハーツで3位はたま)。 この時期自らシリーズギグ“Coretic Rock Bout”を主催し、OUTOやボアダムス等がマッチメイクされている。 88年後半にはパーマネントなメンバーとして、ギタリストに射延の中学時代の同級生、江見洋之が加入。江見はブルースやロックンロールを基盤にしたギタリストであったが、そこを逆手にとり他のハードコアバンドとは違ったアプローチがグリフィンの個性となっていく。89年10月アルケミーレコードのコンピレーションアルバム『Fear』(レイプス、ダンスマカブラ、KGGM収録)に参加。「女子供が愛撫するのがロックか?」と当時のバンドブームへの立ち位置を表明した初期の代表曲「Attitude」を収録。射延は当時、ダンスマカブラのサポートギタリストとしても活動していた。 90年、アルケミーレコードより2ndシングル「獅子吼」をリリース。ジャケットのイメージはモーターヘッドの“Ace of Spades”。強力なJapanese Hardcoreナンバーだが、ただの“ジャパコア”に終わらせない射延のソングライティングと、江見のギターアレンジが異彩を放っている。獅子吼の曲全体のアウトラインはWE CAN WORK IT OUTを拝借しているという(言わずと知れたレノン・マッカートニー作)意外性もある。ここでドラムサポートの堀辺俊二が去り、腰を据えて正式ドラマーを探す為ライブ活動を一時停止。代わりにその後も関係が続く事になるMCRカンパニー弓削正隆の協力によりソノシート「LIVE・FULMINATE」を発表する。 メンバー募集により弱冠20歳の矢島圭がグリフィン初の正式ドラマーとして加入。初めてのロングツアーや、夏には7日間連続のツアー等を経験し、バンドマンとしての体力を培うことになった。 正式メンバー4人が揃ったバンドは17ヶ月間ライブを中断し、ミーティングとリハーサルを重ねていく。髪を切り典型的なパンクギアを外し、今までのハードコアパンク的なアプローチを止め、元々ずっと射延の心の真ん中にあったザ・クラッシュの姿勢と音楽性に回帰していく。折良く92年ザ・ポーグスwithジョー・ストラマーが来日。アイリッシュミュージックを知った射延はマンドリンを購入。江見は誰からかバンジョーを借り、1日で基本的奏法を攻略。村本は、旅行で訪れたアイルランドのダブリンの楽器店で、A ~Gまでのキーのティンホィッスルを購入し、1stアルバムのレコーディングに入る。因みにアルケミーレコードJOJO広重氏の尽力により来日したジョー・ストラマーやポーグスのメンバーと一晩過ごし語り合った出来事、いわゆる“Mealstrom Night”は2ndアルバム収録“All in Griffin”で歌われている。 92年。プロデューサーに関西パンクの重鎮、林直人(一般的には初期INUのギタリストで有名)を迎えアルケミーレコードより1stアルバム『The Album』を発表。ゲストアコーディオン奏者に切石智子、キーボードとピアノに、ガールズロックバンド、C.Cライヤーの三浦、島田の両名がサウンドに彩を添えた。前述の生楽器を取り入れたグリフィン流アイリッシュトラッドとクラッシュの“Know your rights”のカバーを含むパンク楽曲が混在する内容に昔からのファンは戸惑ったようである。射延によると「林さんはポーグスとか全く知らなかったから、スタジオで座って延々とビールを呑んでいた(苦笑)。」そうだ。収録されたグリフィン日本語期の代表的な楽曲“Shipworms”は西山裕介(バルザック)が大学の授業で紹介した際、教授から褒められたという逸話がある。 93年初頭、1stアルバム発売記念初のワンマンライブを以降解散までホームとなる十三ファンダンゴで開催。あまりに変化した音楽性についてこれるのか?と不安はあったが、結果は満員御礼。1年半ぶりのグリフィンのライブを皆待ち望んでいた一方、ポーグスアプローチのプレイに射延曰く「今までのファンがぽっかーんとしてるのを目の当たりにした」。またこのライブから生まれた、前述の切石智子に加えアコースティックギターに実弟の射延博樹(LRF)、ベースに大洞一己(BLADE)が参加した布陣は、グリフィン7と称しこの後「資金源強奪 E.P.」をリリース(バンド名義は愚理歩胤)。MCRの拠点福知山Sound Rattで様々な工夫、遊びを凝らして録音した、東映映画「資金源強奪」(ふかさくきんじ監督、北大路欣也主演)テーマカバーは秀逸の出来栄えだ。この2作品のプロモーションツアー、初の北海道では、地元テレビの情報番組に江見、矢島が生出演。(射延は気管支炎を発症し病院に緊急搬送され、村本はススキノでトラブルに巻き込まれて任意で警察に出頭中の為、不参加)。そして地元大阪では、同時に“Ultra Punk Gig Series TRUE FORCE”にほぼレギュラー出演。LRF、BLADE、PHOENIXといったバンド達と共演を果たしていく。
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