【1994〜1998年】
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「GRIFFIN」の記事における「【1994〜1998年】」の解説
94年、オリジナルメンバーの一人村本が「なにやっても面白くない」と脱退を告げるが、新曲のリハーサルをやっていくうちに「なんかおもろなってきた」とあっさり脱退を撤回。この新曲「Rockers Daylight」はシングルとして射延自身のレーベルH.O.Lレコードから発売。ポーグスアプローチとパンクロックが結実したグリフィンの代表曲となる。B面はシャングリラス"Long live our love”のカバー。 95年。来たるアルバム先行シングル「Live in the first degree」(前シングルからお馴染みとなったB面カバーはSLADEの“Run Runnaway”)をMCRからリリース。福知山Sound Rattで合宿レコーディングを行い2ndアルバム『All in Griffing Swift Revenge』が完成。「収録曲の半分は録音に入るまでに、ツアーでプレイしてモノにしてたから、スムーズにグルーヴを出せたと自負してます。ベーシック全曲6時間ほどで仕上げたと記憶してます」ドラマー矢島は振り返る。 1stアルバムと同様、生楽器を取り入れた楽曲とパンクロックが混在した内容だが、前作より演奏は達者になり、よりそれが深く融合された充実作だ。また当時ヒットを連発してた所謂小室サウンドに挑戦したナンバーもあり、他のパンクバンドではあり得ない一般大衆の流行を取り込む遊び心はグリフィンの個性とも言える。そしてこの作品あたりから射延は英詞の韻を踏むライミングの面白さに没頭し始め、以降作品に発揮されていくことになる。 プロモーションツアーを終えたバンドは、MCRカンパニーのコンピレーション『TORTAL INSUBORDINATION』に参加。BALZACやLRF、SDS等が参加している。V.Aリリース記念イベントにも参加した後、射延はアコースティックアプローチから一旦距離を置き、90年代のストリートロックを形にすべく、新たに曲を書き出した。 村本の素晴らしいベースラインに耳を奪われるU.K.Subs直系ナンバー「No Call」は、「90年代というより80年代かな?ノーコールはストリートパンクロックの最たるもの」と射延は言う。今回のシングルB面カバーはクラッシュの“ハマースミス宮殿の白人”の英詞替歌で、タイトルは歌詞の一節でもある“They ain't got no roots rock rebel”に変えている。そして、このツアーの終了と共に、矢島圭がバンドを去った。 バンドは新ドラマーに元バルザックの西尾肇を迎え、8月法政大学でのイベントに参加。10月射延博樹(LRF)が立ち上げたレーベルREAL DEAL Recordsからグリフィン初のベストアルバム『The Best of Griffin from the West』がリリース(単独でのLPレコードはこれが最初で最後)。 97年初頭、ニューシングル「The Age of Innocence」発売。5月に発売記念ワンマンライブを敢行。射延と射延博樹はビル・レッキー(Allegiance)を伴い渡英。主な目的は8月に来日が決定してるワンウェイシステムとの最終打ち合わせとザ・ウォリアーズa.k.a.ラストリゾートのアーサー・ケイ宅に訪問しての来日交渉であった。帰国後、恒例の福知山でニューアルバムの合宿レコーディング。そして8月ワンウェイシステムのサポートアクト10日前、西尾が精神的プレッシャーの為か突如消息を断つ。残り10日で叩けるのは矢島しかいないと依頼。矢島は見事クアトロのステージを勤め上げそのまま正式に復帰する。「あの時は矢島が凄く頼もしい友達に思えて、泣きそうだったねぇ」''友達"と形容した射延。そして10月。最終的に1番売れたという3rdアルバム『We Stand Firm』がMCRより発売。ジャケットやタイトル、フットボールギアをまとったスリーブ写真を見ればわかるように、ブリティッシュユースカルチャーとOi〜Street Punk影響全開な快作である。シングル曲の“No Call”“The Age of Innocence”は再録され、この時期のグリフィンを象徴するキャッチーなシンガロングナンバー“What a Stormer”は以降のライブでハイライト曲になっていく。 11月、初来日したザ・ビジネスのサポートアクトを果たし97年を終える。 翌98年サッカーW杯フランス大会を控え、イングランド代表チームの熱狂的なファンだった射延は"迷案"を形にすべく、イングランド“非公式”サポーターソングとして「France '98 issue」と題したシングルを発表。A面はSLADEの"グッバイジェーン”を改題、イングランドスクワッド風にリリックを変えたカバー“Gudluc T' Glenn”。グレンとは当時のイングランド代表監督グレン・ホドルの事。B面もテラスィーズチャントで有名な“Oh Sweet England”のカバーを収録。だが約10年、苦楽を共にした江見が5月の広島公演を最後に脱退。「振り返って思うよ、、、当時の江見は辛かっただろうなって。最終的には、グリフィン対江見洋之という対立の構図が出来てたし。ロックバンドのオン ザ ロードあるあるかもしれないけど、はっきりしてることは、僕等は、良いギタリストを失ったって事」。このシングルA面後半、歌の後ろでずっと鳴っている江見のギターソロは文句なしにカッコよく、素晴らしい置き土産であった。因みにこのシングルは英国のパンクプレスに掲載された。 江見脱退後、滋賀県のバンド、サンディストのギタリスト山下伸幸を始め、大阪のバンド、クラッシュドッグスの仲佐竜一が、ギタリスト不在のバンドに救いの手を差し伸べ、ショートツアーを敢行。 12月にはREAL DEAL Recordsの招聘により英国ストリートパンクの大物ザ・ウォリアーズ(a.k.a ラストリゾート)日本公演が実現。グリフィンもサポートアクトで出演した。この来日公演は『The Ultimate Street Music Convention 』というタイトルで、日本側の共演バンドも含めたライブパッケージ盤としてリアルディールよりリリース。
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