緑の党からSPDへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/12 09:56 UTC 版)
「オットー・シリー」の記事における「緑の党からSPDへ」の解説
ノルトライン=ヴェストファーレン州ボーフム生まれ。父親は高炉技術者。家族はアントロポゾフィーを信奉していた。第二次世界大戦中はガルミッシュ=パルテンキルヒェンに疎開。ミュンヘン大学、ハンブルク大学、ベルリン自由大学で法学と政治学を学び、1962年に国家司法試験合格。1963年に弁護士資格取得。在学中ドイツ社会主義学生同盟に参加、学生運動の指導者ルディ・ドゥチュケと友人になる。そのためドイツ赤軍メンバーの弁護を担当することが多かった。アンドレアス・バーダーらが獄中で「自殺」したときは国家による暗殺ではないかと疑問を持ち、その解剖に立ち会った。 1980年、緑の党の共同設立者の一人となり、急進派の一人として知られるようになる。1981年に西ベルリン市議会選挙に出馬するが落選。1983年のドイツ連邦議会選挙で初当選、ヨシュカ・フィッシャーらと共に緑の党最初の国会議員の一人となり、緑の党連邦議員団に所属。この頃には現実派となり、社会民主党 (SPD) との連立を模索した。当時緑の党は連邦議会の議席を党員で持ち回りする党規だったため、1986年に比例名簿上の他の党員が繰り上げられたのと入れ替わる形で議員を辞職。翌1987年の連邦議会選挙で再選された。 1989年、緑の党代表に立候補するが落選、党内抗争に敗れ、議席を保持したままSPDに鞍替えする。1990年の連邦議会選挙でSPDから出馬し当選。1993 - 94年、ドイツ連邦議会の信託調査委員会委員長。1994 - 1998年、SPD副幹事長。1998年 - 2002年、連邦議会内務・法務委員会委員代理、2005年から同外交委員会委員。
※この「緑の党からSPDへ」の解説は、「オットー・シリー」の解説の一部です。
「緑の党からSPDへ」を含む「オットー・シリー」の記事については、「オットー・シリー」の概要を参照ください。
- 緑の党からSPDへのページへのリンク