マイクロソフトの歴史 マイクロソフトの歴史の概要

マイクロソフトの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/30 03:13 UTC 版)

1975年-1978年:マイクロソフトの設立

「ポピュラー・エレクトロニクス」1975年1月1日号に掲載されたAltair 8800の紹介記事を読んだビル・ゲイツは、その新しいマイクロコンピュータの製造者であるMITSに電話をし、Altair向けBASIC言語インタプリタの実装のデモンストレーションをしたいと提案した。ゲイツの手元にはインタプリタもAltairシステムもなかったが、ゲイツはハーバード大学のコンピュータセンターに設置されていたPDP-10を用いたエミュレーションにより、ポール・アレンと共にインタプリタを開発した。実際には、アレンがAltairに搭載されているCPUであるIntel 8080のマニュアルを元にAltairのエミュレータを開発し、ゲイツがその上で動くBASICインタプリタを書く形で開発が進められた[1]。BASICインタプリタの開発には約3ヶ月を要した[2]

アレンは開発したBASICインタプリタを、ニューメキシコ州アルバカーキにあるMITSに持ち込みデモンストレーションを行った。初回のデモではインタプリタは一瞬動作した後に停止してしまったが、アレンは現地でプログラムの修正を進め、3日後には(バグはあったものの)一応一通りの動作を行えるまでに改善した[3]。そこでMITSはAltair BASICとして配布することを承認した。

ゲイツはハーバード大学を去り[4]、またアレンも当時勤めていたハネウェルを退社し、共にMITSのあるアルバカーキに移りマイクロソフトを設立した。マイクロソフト(マイクロコンピュータソフトウェアとのかばん語)という名称は、1975年11月29日にゲイツからアレンに送られた手紙において初めて使用された。1976年11月26日、この名称は登録商標となった。マイクロソフトはMITS以外の会社からも依頼を受け、様々なマイコン向けにBASICインタプリタを開発・供給するようになったため、マイクロソフトのBASICを独占したいと考えていたMITSとは次第に疎遠になり、結局1977年4月にMITSとマイクロソフトの契約は打ち切られた[5]

マイクロソフトの最初の国際オフィスは1978年11月1日に日本に「アスキーマイクロソフト」の名称で設立された。これに先立つ1978年6月に、アスキーの創業者である西和彦がアルバカーキのゲイツのもとを訪れており、西と意気投合したゲイツは西をマイクロソフト本社の副社長として迎えた。西は結局1986年までマイクロソフトの副社長を務め、日本におけるマイクロソフトBASICの普及を担っただけでなく、MSXなどの規格を主導していくことになる。

1979年-1985年:本社移転とMS-DOS

1979年1月1日、マイクロソフトはアルバカーキからワシントン州ベルビューに移転した。1980年6月11日スティーブ・バルマーが入社し、後にゲイツの後を継いでCEOとなった。マイクロソフトは1981年6月25日に再編成し、ワシントン州の法人企業となった(さらに社名を改め「Microsoft, Inc.」とした)。再編成の一環として、ゲイツは社長会長となり、アレンは副社長となった。

1980年、マイクロソフトが公にリリースした最初のオペレーティングシステムは、UNIXから派生したものだった。マイクロソフトはそれを配布ライセンスに基づきAT&Tから取得し、Xenixと名づけた。さらに、複数のプラットフォーム移植するため、Santa Cruz Operations社を雇った。このオペレーティングシステムは、マイクロソフトの最初のワードプロセッサーであるMicrosoft Wordの動作環境となった。Wordは当初「Multi-Tool Word」という名称であり、WYSIWYGのコンセプトが注目を浴びた。Wordは太字テキストを表示したりといった機能をもつ最初のアプリケーションでもあった。Wordは1983年の春に発売され、無料の評価版がPC World誌1983年11月号に付属された。これは、雑誌に付属して配布された最初のプログラムであった。しかし、Xenixは多くのソフトウェアOEMに再販売のライセンスが与えられていたにもかかわらず、エンドユーザに直接販売されることはなかった。1980年代中盤には、マイクロソフトはUNIXビジネスから完全に撤退した。

DOS (Disk Operating System) は、マイクロソフトを真の成功へと導いたオペレーティングシステムであった。デジタルリサーチとの交渉が決裂した後、IBMは、CP/Mオペレーティングシステムのバージョンの1つをマイクロソフトに提供する契約を交わした。これは近く発売されるIBMのパーソナルコンピュータで使用される予定のものであった。取引の条件として、マイクロソフトは86-DOSと呼ばれるCP/Mのクローンを、シアトル・コンピュータ・プロダクツ(SCP)社から購入した[6]。また86-DOSの開発者であるティム・パターソンも後にマイクロソフトに移籍した。これはIBMによってPC-DOSと改名され、1981年8月に発売されたIBM PCに搭載された。

IBMは、潜在的な著作権侵害のおそれを避けるため、CP/MとPC-DOSの両方をそれぞれ240米ドル、40米ドルで販売した。これにより、PC-DOSは低価格のため次第に標準となっていった。1983年前後には、多数の会社との提携により、マイクロソフトは家庭用コンピュータシステムMSXを開発した。これはMSX-DOSと名づけられた独自のDOSオペレーティングシステムを搭載していた。これは日本ヨーロッパ南アメリカで比較的好評を得た。後に、Columbia Data Products社がIBM BIOSのクローンで成功を収め、Eagle Computer社とコンパックがそれに続くと、市場はIBM PCのクローンであふれるようになった。IBMとの取引により、マイクロソフトはQDOSから派生したMS-DOSを自由に管理する権利を与えられていた。IBM PCのクローンの製造者への積極的なマーケティングにより、マイクロソフトは弱小企業から家庭コンピュータ産業における主要なソフトウェアベンダへと成長した。1983年5月2日のMicrosoft Mouseの発売を皮切りに、マイクロソフトは他の市場へも製品ラインを拡大していった。


[ヘルプ]
  1. ^ NHKスペシャル新・電子立国』第1巻「ソフトウェア帝国の誕生」(相田洋著、日本放送出版協会1996年)pp.120 - 123
  2. ^ 『新・電子立国』第1巻・pp.128 - 129
  3. ^ 『新・電子立国』第1巻・pp.133 - 135
  4. ^ ただしこの時点では学籍は残している。正式に退学したのは2年後の1977年。
  5. ^ 『新・電子立国』第1巻・p.167
  6. ^ 当初は25,000米ドルで非独占的ライセンスを購入。その後50,000ドルを追加して全ての権利を買い取ったが、後にSCPと訴訟沙汰となり、結局マイクロソフトはSCPに和解金として100万ドルを支払っている。
  7. ^ Seattle Post-Intelligencer Staff (2005年5月18日). “Redmond council OKs Microsoft expansion”. Seattle Post-Intelligencer. http://www.seattlepi.com/local/224768_microsoft18.html 2006年7月4日閲覧。 
  8. ^ マイクロソフト (2008年2月22日). “マイクロソフト、相互運用性の強化に向けたテクノロジ プラクティスとビジネス プラクティスの変更を発表”. 2008年10月16日閲覧。






英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

マイクロソフトの歴史に関連した本

辞書ショートカット

カテゴリ一覧

全て

ビジネス

業界用語

コンピュータ

電車

自動車・バイク

工学

建築・不動産

学問

文化

生活

ヘルスケア

趣味

スポーツ

生物

食品

人名

方言

辞書・百科事典

すべての辞書の索引

「マイクロソフトの歴史」の関連用語

マイクロソフトの歴史のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング

画像から探す

紙目

大豆油

特定小電力無線局

松谷棚田

ギミーブック

K 1200 R

鴨居

ギャラン フォルティス





マイクロソフトの歴史のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマイクロソフトの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2017 Weblio RSS