島津氏 島津氏の概要

島津氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 14:21 UTC 版)

島津氏
丸に十文字まる に じゅうもんじ
本姓 惟宗忌寸流朝臣
家祖 島津忠久
種別 武家
華族公爵
主な根拠地
著名な人物 島津久経
島津忠良
島津貴久
島津義久
島津義弘
島津歳久
島津家久
島津重豪
広大院
島津斉彬
島津久光
島津忠義
天璋院
支流、分家 玉里家公爵
佐土原家(武家・伯爵
重富家(武家・男爵
加治木家(武家・男爵)
垂水家(武家・男爵)
今和泉家(武家・男爵)
日置家(武家・男爵)
都城家北郷氏(武家・男爵)
宮之城家(武家・男爵)
伊集院氏
新納氏
川上氏
桂氏
佐多氏
迫水氏
樺山氏
山田氏
喜入氏
野々山氏
町田氏
凡例 / Category:日本の氏族

鎌倉時代から明治時代初期まで薩摩を領し、廃藩置県で薩摩統治から離れた後に公爵家となった薩摩島津氏が最も有名だが、他にも多数の分家[注釈 1]がある。本項は主に、薩摩島津氏を本流とした記述である。

通字に「」・「[注釈 2]。また、公式文章の面では「嶋津氏」の表記を用いられてきた。

概要

治承・寿永の乱終結後の元暦2年/文治元年(1185年)8月、島津家の家祖島津忠久は、五摂家筆頭の近衛家島津荘下司職に任じられる。これに始まり、鎌倉幕府成立後には源頼朝より、三州すなわち薩摩国大隅国日向国の3国の他、初期には越前国守護にも任じられ、鎌倉幕府有力御家人の中でも異例の4ヶ国を有する守護職に任じられた。以降、島津氏は南九州の氏族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。天正15年(1587年)には豊臣秀吉九州平定を受けるも、3ヵ国の旧領は安堵された[2]

関ヶ原の戦いで西軍に属して敗戦したが、領地を安堵されて江戸時代には77万石という外様大名屈指の雄藩となる。幕末には長州藩毛利家とともに討幕運動の中心勢力となり、明治維新の原動力となった。明治時代、大正時代には政財界に重きをなした[2]。島津家は本家、分家、旧支藩藩主家や旧一門家臣など14家が華族に列しており(公爵家2家、伯爵家1家、男爵家11家)、この数は松平家(29家)に次ぐ[3]

この薩摩島津氏の他、越前、信濃駿河若狭播磨近江に支流としての島津氏が派生し、それぞれ越前島津氏信濃島津氏、河州島津氏、若狭島津氏播磨島津氏江州島津氏と呼ばれている。

島津氏は、多くの大名の中でも鎌倉室町から江戸現代まで名門として続いている稀有な家である。

出自・近衛家荘官・鎌倉幕府御家人

「教導立志基」より『丹後局』
水野年方

島津姓については、諸説ありとし、忠久が元暦2年(1185年)8月17日[4]近衛家の領する島津荘下司職に任じられた後、文治元年(1185年)11月28日文治の勅許以降、源頼朝から正式に同地の惣地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされている。忠久の出自については、『島津国史』や『島津氏正統系図』において、「摂津大阪住吉大社境内で忠久を生んだ丹後局源頼朝側室で、忠久は頼朝の落胤」とされ、出自は頼朝の側室の子とされている。

同じく九州守護に任じられた島津忠久と豊後大友能直に共通していることは、共に後の九州を代表する名族の祖でありながら、彼らの出自がはっきりしないということ、いずれも「母親が頼朝の側室であったことから、頼朝の引き立てを受けた」と伝承されていることだろう。忠久は摂関家の家人として京都で活動し、能直は幕府の実務官僚・中原親能猶子だった。この当時、地頭に任じられても遠隔地荘園の荘務をこなせる東国武士は少なかったと見られ、島津氏も大友氏も軍功ではなく荘園経営能力を買われて九州に下っている形が共通している[注釈 3]

その他の出自に係る説について

忠久の実父については諸説あり、頼朝の実子であり惟宗広言の養子であったとする説以外に、広言の実子であるという説があるが、通字の問題などから広言の実子説については近年疑問視する説もある。


注釈

  1. ^ 他に鎌倉以来、越前島津氏信濃島津氏若狭島津氏江州島津氏播磨島津氏、などの支流が存在する。
  2. ^ 初名も含めると基本的な通字は全時代を通じて「忠」の字が多く、江戸時代初期までは執権や将軍の偏諱を受けた場合に『「偏諱」+「久」』が多い。明治以降現在は嫡男に「忠」、次男に「久」[1])を用いる。
  3. ^ 板垣兼信は年貢未進・違勅の罪で円勝寺領遠江国雙侶荘(静岡県榛原郡金谷町志戸呂)の地頭職を解任され、隠岐国へ配流された(『吾妻鏡』建久元年9月17日条)。伊勢国治田御厨の地頭に補任されながら、現地沙汰人が荘園領主である伊勢神宮と対立して処分された畠山重忠は、「現地に良い眼代(代官)が得られないならば、(新恩の)領地を戴くべきではない」と述べている(『吾妻鏡』文治3年10月4日条)。
  4. ^ 島津氏は室町幕府3代将軍である足利義満の度重なる上洛の要求にも応じず、結局南北朝時代から室町時代を通じて同氏が上洛したのは、4代将軍義持の治世1410年(応久17年)に元久が相続安堵の謝辞為の上洛一度限りである。これは数ヶ国を擁する大守護大名としては異例のことであった。
  5. ^ 秀吉は武力を背景にした圧力工作で関白の地位を得ていた。
  6. ^ かつて島津家から太閤蔵入地や石田三成細川幽斎の所領として設定された分と、島津忠辰の旧領出水3万石。
  7. ^ ただし、近衛家養女として将軍家へ嫁いだため、島津家から直接御台所となったのではない。
  8. ^ ただし、西本誠司は「島津義弘の本宗家家督相続について」の脚注中で元和2年(1616年)に建立された加治木町(現・姶良市)の精矛神社(かつての義弘居館)内の経塚の碑文(現在破損)に「島津十七代藤原義弘」と署名していたと伝えられる件を指摘し、慶長16年(1611年)に・義久が没すると義弘自らが「島津家第17代」と名乗るようになり、家中もこれに異議を挟めなかった可能性を示している。
  9. ^ 子孫は一時期、「石谷氏」を名乗る。町田久倍の代より町田に復姓。正徳年間より庶流は「梅本氏」を名乗るよう主命が降る。
  10. ^ 後に一時「姶良氏」を称するが寛文11年(1671年)に復姓。姶良氏は平姓姶良氏も存在する。
  11. ^ a b 後に無嗣断絶するも、東郷氏流高城氏の者が継いで、「大島氏」を名乗る。
  12. ^ a b 伯州家3代・忠常は没落し、北郷氏を頼ると子孫は「志和地氏」を名乗る。伯州家の家督は忠常の叔父・忠衡が継ぐも、孫の代に無嗣断絶。それを喜入季久の次男が継いで以降は「義岡氏」を名乗る。
  13. ^ ただし、「源」署名は室町時代中頃より藤原姓と平行して使用の形跡がある[39]

出典

  1. ^ 『名家・名門の秘密』講談社〈セオリーMOOK〉、2009年、24頁。 
  2. ^ a b ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『島津氏』 - コトバンク
  3. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 322 - 364.
  4. ^ 島津家文書』より。なお、元暦2年は8月14日までであるが、鎌倉まで伝わるのが遅れたことによるものか。
  5. ^ 源頼朝の落胤説に則った『島津歴代略記』(島津顕彰会 1985年)における、治承3年(1179年)12月30日出生説による。しかしながら、史料上の初見とされる『山槐記』治承3年2月8日の記事には「左兵衛尉忠久」が春日祭使の行列に供奉している記録があり、地頭職補任時には成人していたも解することができる。
  6. ^ 『島津家文書』312号
  7. ^ 新名 2015, p. 38・59 - 60.
  8. ^ 新名一仁 著「南北朝期島津奥州家の日向進出-その過程と歴史的意義-」、地方史研究協議会 編『南九州の地域形成と境界性-都城からの歴史像-』雄山閣、2010年。 (改題所収:新名 2015, 「南北朝期島津奥州家の大隅・日向進出とその論理-奥州家独自の領有観形成-」)
  9. ^ a b 新名一仁「嘉吉・文安の島津氏内訌-南九州政治史上の意義-」『史学研究』235号、2001年。 (改題所収:新名 2015, 「嘉吉・文安の島津氏内訌」)
  10. ^ 新名一仁 著「室町期島津氏〈家中〉の成立と崩壊-南九州における戦国的状況の出現過程-」、日本史史料研究会企画部 編『戦国・織豊期の西国社会』〈日本史史料研究会論文集2〉2012年。 (改題所収:新名 2015, 「室町期島津氏〈家中〉の成立と再編」「室町期島津氏の解体過程」)
  11. ^ a b c 山口研一「戦国期島津氏の家督相続と老中制」『青山学院大学文学部紀要』28号、1986年。 (所収:新名 2014
  12. ^ 関ヶ原直前の前田利長と利政の表高合計。
  13. ^ 佐竹家(与力の岩城・芦名らを含めると80万石)を加え「豊臣六大将」という場合がある。
  14. ^ 加賀藩支藩として富山大聖寺を分割し、前田宗家の石高は減じている。
  15. ^ 浅見雅男 1994, p. 102.
  16. ^ 小田部雄次 2006, p. 60/92.
  17. ^ 小田部雄次 2006, p. 95.
  18. ^ 小田部雄次 2006, p. 101.
  19. ^ 小田部雄次 2006, p. 57 - 58.
  20. ^ 小田部雄次 2006, p. 332.
  21. ^ 小田部雄次 2006, p. 347.
  22. ^ 小田部雄次 2006, p. 346.
  23. ^ a b c d 小田部雄次 2006, p. 350.
  24. ^ 小田部雄次 2006, p. 360.
  25. ^ 小田部雄次 2006, p. 344.
  26. ^ 小田部雄次 2006, p. 353.
  27. ^ 小田部雄次 2006, p. 345.
  28. ^ 小田部雄次 2006, p. 352.
  29. ^ キーン 2001, p. 127.
  30. ^ 小田部雄次 2006, p. 64.
  31. ^ 旧島津家本邸”. 清泉女子大学. 2021年9月20日閲覧。
  32. ^ 小田部雄次 2006, p. 144.
  33. ^ 宮内庁. “天皇陛下お誕生日に際し(平成15年)”. 2017年4月11日閲覧。
  34. ^ a b 島津家系図”. 尚古集成館. 2016年4月23日閲覧。
  35. ^ 西本誠司「島津義弘の本宗家家督相続について」『鹿児島県中世史研究会報』43号、1986年。 (所収:新名 2014
  36. ^ 福島金治「戦国期島津氏の起請文」『九州史学』88・89・90号、1987年。 
  37. ^ 松尾千歳 著「島津義久の富隈城入城とその時代―義久家督をめぐる諸問題―」、志学館大学生涯学習センター、隼人町教育委員会 編『隼人学』南方新社、2004年。 
  38. ^ a b c d 都城市史編さん委員会 編『都城市史 通史編 中世・近世』2005年。 
  39. ^ 村川浩平「島津氏への松平氏下賜」『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年。 
  40. ^ 高澤等『家紋の事典』東京堂出版、2008年。 
  41. ^ a b c 『島津家おもしろ歴史館』尚古集成館、1991年。 
  42. ^ 大野信長『戦国武将100 家紋・旗・馬印FILE』学習研究社、2009年。 
  43. ^ 薩摩・島津家の歴史”. 尚古集成館. 2012年3月27日閲覧。






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